2006年05月04日

奥州街道紀行・秋保温泉・名取から仙台まで(5/2)

足朝の5:00、秋保の朝はひんやりしていました。やっぱりせっかく来たのに温泉で飲んだくれるだけじゃ物足りないじゃないですか。そこでいつもの歩き装束に着替えて山形の方向に向いて歩き出しました。着物や制服を着た女性何人かとすれ違い、湯元の旅館は今が出勤時間のようです。軽く流して朝風呂浴びるか、というくらいのつもりで出てきたのでしたが、昨日海辺で見た名取川が狭い谷合を流れているのを見るとどうにも足が止まらない。秋保大滝までは距離がありすぎるので、神ヶ根温泉の辺りから二口街道を湯元方面に引き返しました。この辺りは桜並木があり、名取川の河原に出ることができます。ここで少し休憩。
秋保・名取川
宿に戻ると万歩計が1万歩を記録していました。ちょっとのつもりがつい本気の歩きになって、ちょっと大人気ないですかね。朝食を美味しくいただくと8時。喫茶コーナーが開いていたので珈琲をいただきました。8:30。そして朝風呂に。夜中の間に男女の入れ替えがあったので夕べとは違うお湯に。朝から風呂に入ると疲れが出てこれからの歩きに支障が無いかと少し心配でしたが。そして9時過ぎに宿を出て、磊磊峡の辺りまでまた少し歩きます。途中、秋保・里センターというのがあり、ここで散策マップを幾つか入手しました。昔は仙台からここまで鉄道が通っていたそうです。その先に覗き橋という幾分淫靡な名の橋があり、旅人はこの橋からの渓谷の眺めに見入ることが多くその名がついたということでした。覗いてみると、特に淫靡なものが見えたというわけでもありませんでした。
覗き橋から覗いた名取川
覗き橋からは渓谷沿いの遊歩道を歩きました。奇面岩、天斧岩、三筋の滝などの見所が看板で表示されています。「真二つに天斧巌をつんざきぬ三万年前のあけぼの」と土井晩翠が詠んだのはこの辺りでしょうか。上手いこと言います。三万年前とか言うと「創聖のアクエリオン」を思い出しますね。あれは1万2千年前でしたか。滝不動の辺りで遊歩道が終わりになりました。ここからバスで仙台へと戻ることにします。バスを待ちながら停留所付近をうろついていたらこんな看板が。
こ、怖い…
権太、三太衛、茂久吉とは一体誰なのでしょう?犬の名前のような気もしますが、案外屈強な男達かも…いやいや、徘徊してるというのだからボケの始まったご老人なのかもしれません。遊び相手を探してるのだそうです。寂しがりなのでしょうか。「注意を怠  るべし」というのは、警戒せずに友達になってあげて欲しい、と言う意味でしょうか。秋保の謎に首をかしげている間にバスが来ました。
バスは長町を経由して仙台駅へ行きます。長町には仙台から一つ南の駅がありますから、そこで降りて軽く食事(駅の立ち食い蕎麦。蕎麦は良いですね。理想的なダイエット食だと思います)して名取に再三戻りました。三日目にしてやっと奥州道中再開と言うわけです。GWの行楽客を意識してでしょうか、駅のホームにはてるてる坊主が。雨降ったら首をちょん切るぞ。
長町坊主
12時過ぎに名取につきました。公民館まで少し引き返して衣笠の松を見物。この名は木戸孝充の歌にちなむそうです。「大君の立ち寄りましし陰なれば衣笠の松とこそいうなかりけれ」衣笠は貴人に用いる柄の長い傘。「けれ」は逆接の接続助詞。わたしには桂小五郎が衣笠の松と言うと言ったのか言わないと言ったのかがわからないのですが…。そこから30分も歩けばもう仙台市に入り、広瀬橋には14:30頃着きました。橋の袂に橋供養の石碑があります。根岸の長者の娘という人が人身御供となって橋が架かったという橋姫伝説があるのでした。
広瀬川
川を渡って旅立稲荷をお参りして、河原町・南材木町・南鍛冶町と街中を進み三宝荒神社を詣で、仙台藩校のあった泰心院など訪れるといつの間にか16時をまわっています。これはまずい!何がまずいかと言うと、そう、博物館の類が入場を締め切る時間が迫っているのです。あわてて田町でタクシーを拾って榴岡(つつじおか)公園に向いました。歴史民俗資料館は入場16:15まで。嗚呼,間に合った。ここは旧陸軍第四連隊の兵舎で、そういう関係の資料も多く所蔵されていました。色々眺めていると閉館間際に入ってきた人が怒鳴り散らしているのが聞こえてきました。閉館まであまり時間がないと職員の方に言われたことが気に食わなかったようです。サービスを受ける立場としての意見を述べているようなのですが…静かにしろよな(ト、私も怒鳴る、ただし心の中で)。歩き疲れでわたしも少々怒りっぽくなっているようです。ここで史跡に関わる資料を2冊ほど入手して、国分寺跡をまわるとかなり風が冷たくなっています。次回は青葉城や市内の博物館をぐるぐる回るところからスタートです。多分梅雨時に訪れることになるのでしょうが、街中歩きだからまあ、いいかな?仙台って梅雨はどうなんだろうとか、秋保に行ったから今度は作並かな、とか、博物館の閉まっている月曜を避けて来なくては、とか、まあいろいろ考えつつ混雑している新幹線に乗って都会に帰りました。この日家に着いた時点での歩数、43797歩。お疲れっしたー。
posted by けいりう堂 at 10:56| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年05月03日

奥州街道紀行・名取散策その2(5/1)

足風薫る五月となりましたが、今日は曇り空です。仙台駅に荷物を置いて白石行きの電車に乗り、名取駅に向いました。今日は街道の東側の史跡を訪ね歩くわけです。さあがんばるか。と、思った矢先、大変なことが発覚しました。何とデジカメが動かないのですね。これは困った。いろいろ考えた末に、仕方無く仙台に戻り、東口の電気店で安手のデジカメを購入することに決めました。これまでに使っていたコンパクトフラッシュを使うタイプは既にして時代遅れのようです。ということは媒体も買わねばならない。さらに、電池のタイプもいろいろあって、今すぐ使おうとすると充電の手間が馬鹿にできません。結局選んだのはSDカードと単三電池二本を使うニコンCoolpix L3。まあ値段も2万円台だしやむを得ないかと。今まで使っていたCoolpix883は手の大きさにピッタリなずんぐりしたものだったのに比べてL3は薄手で、握ってる感じがどうも軽すぎる。しかし機能的には十分です。これに決めました。SDカード512メガも購入して3万の出費。なかなかの痛手ではありますね。しかし残り二日の記録にはどうしても欠かせません。付近に電気店の無い田舎の旅でなくて良かったのだと思い直して、ロッテリアで珈琲飲みながら操作法をひと通り確かめるともうお昼。お蕎麦で簡単に済ませてまた名取駅に戻りました。
初めに訪ねたのは駅の東1kmほどのところにある耕龍寺。伊達家11代当主持宗公夫妻の墓所でここの山門はもと白石城の城門です。境内には紅白の花桃三本が咲き誇っていました。
耕龍寺の花桃
次に訪ねたのは、この地に熊野信仰を広めた名取老女の墓でした。昨日三社を全て訪ねていますから見ず知らずの古人とはいえ何となく親近感を感じます。周囲には田圃が広がっています。昨日散策した西側は奥羽山脈につながる山がちな地形でしたが、こちら側は海に到るまで平地が広がっています。
名取の田圃
ついで洞口家住宅を見学しました。昨日訪れた旧中沢家住宅で、シルバー人材の方が、洞口家のほうは教育委員会ではなく洞口さん個人が管理していると説明してくれましたが、このときも屋根のための萱を束ねていたようでした。
さらに東へと進むと、名取川の堤防の辺りに松並木が見えてきました。これが「あんどん松」で、伊達藩によってわざわざ遠州から取り寄せられてここに植えられたものだそうです。名取川河口には閖上(ゆりあげ)漁港があり、ここに入る船はこの松を目印に入港したためこの名で呼ばれるようになったと言うことです。ちょうど、市の職員と思しき方々が土手のゴミを拾いに来ていました。
あんどん松
ここからは堤防沿いに歩き、貞山運河の方に向いました。堤防の上を川を眺めながら歩くのは楽しいですね。淀川や阿武隈川に添って歩いて以来、その楽しさに気づきました。しばらくすると、彼方此方に小舟が停泊しています。川には砂州が目立つようになり、海鳥の姿も見えます。そういえば潮の香りもし始めました。太平洋に近づいてきたと言うことでしょう。運河を辿る前に、ちょっと閖上漁港の方に行って見ることにしました。
名取川河口
嗚呼、波の音がします。かなり大きな音です。以前静岡-糸魚川構造線を北上して日本海にたどり着いたときのことを思い出しましたが、日本海はもっと静かでした。太平洋の荒波とは良く言ったものです。改めて日本海が内海であると言うことに想いが到ります。日本付近の地図を上下逆にして眺めると、どういうわけかこのことがとてもよくわかります。一度暇なときにやってみてください。それにしても、海までほんの僅かだったのですね。街道に沿って歩いていただけでは実感がありません。昨日那智熊野社から眺めた、まさにあの場所に今日は居る自分が不思議でもあります。
この先は、海岸線に平行して1km弱内陸に走る貞山運河沿いに歩きます。このときは全く知りませんでしたが、1600年頃から1889年まで掛かって開かれたそうで、旧北上川河口から阿武隈川河口まで全長46kmにもわたるそうです。貞山とは仙台藩祖政宗公の法号なのだそうです。北の端は松島湾です。貞山運河沿いにずっと歩くと言うのも良いテーマ・ウォーキングになるのではないでしょうか。
貞山運河
まあそういうウォーキングはいずれそのうちやるとして(やるのか?)ですね、今日は名取の中を散策しつくしてしまいましょう。仙台空港の近くにある雷神塚古墳、毘沙門堂古墳、経ノ塚古墳と訪ね、ここに東屋とトイレがあったので一服しました。時刻は午後5時をまわっていますが、まだあと一箇所だけ訪ねたい場所が残っています。それは東光寺の宝篋印塔で、江戸中期の石造建造物です。お寺の中にあるということは、夕刻には門を閉ざされて見ることができない可能性がありますので焦ります。が、昨日も5万歩以上歩いて今日もかれこれ3万歩。さすがにもうゆるゆると行くしかありませんでしたが、たどり着いてみればそこは閉ざされる心配の無い場所でした。高さ2.3mとなかなかでかいものです。斗蔵観音、と表札のようなものがありましたが、何のことでしょう?
東光寺宝篋印塔
かくして、見るべきほどのものは全て見た。へとへとになりましたが、今日はまだやることがあるのです。それはバスに揺られて秋保温泉に行くこと。寝ながら行けばそこには極楽の湯と極楽の飯、極楽の酒が待っていたのでした。
岩沼屋特製秋保詩篇秋の章。春だけど秋。
posted by けいりう堂 at 22:54| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚・続

奥州街道紀行・名取散策その1

足4/30(日)。始発の電車で宮城県名取に向いました。先回ここで名取の史跡の資料を入手したので、今日はこれを参照しながら奥州街道の西側を散策します。まずは南に歩を進め、十三塚遺跡へ。ここは公園になっており、野球場で試合をやっていました。楽隊が来ていないようで、部員達がパーパーパー♪と"さくらさくら"の曲でトランペットを真似て応援していました。公園内にも桜が。
十三塚の桜
十三塚は縄文から古墳時代までの複合遺跡でした。その少し北の墓地の中には十三仏の石塔があるのですが、特に説明板なども無く、上から1/3くらいのところでぽっきり折れたまま放置されていると言った感じでした。残念には思いますが、余所者には知れない事情もあるのかも知れません。
この近くに旧中沢家の建築があります。由緒は良くわからないそうですが、18世紀後半のもので「名取型」と呼ばれるこの地方特有の様式だそうです。建屋の世話はシルバー人材センターの方が行なっており、付近の史跡のことを少々語り合いました。この日はお話ボランティアの方もここを借りて方言をたっぷり使って子供に昔話を聞かせていました。流暢な方言の語りは建屋の古さにぴったりと合うはずのものなのでしょうが、皮肉屋の旅人は何故か違和感を感じてしまったようです。
旧中沢家住宅
ここよりがんセンターの周囲を回って、笠島廃寺跡、芭蕉ゆかり(とは言え道が悪くて芭蕉自身は訪ねなかったようですが)の道祖神神社、そして藤原実方朝臣の墓を訪ねました。先回街道沿いに「笠島はいずこ」の芭蕉句碑を見ましたが、実際に訪れることができたわけです。実方墓は薄暗い林の中で塚の上に一本の竹を差した簡素なもので、時代は全く違いますが、正月に深草で訪ねた元政上人の墓を思い出しました。実方さんは道祖神社の前を馬に乗ったまま過ぎようとして神罰に遭いなくなったということです。
藤原実方朝臣墓
北上し、悲恋の物語の伝わる幾代・小佐治の墓を訪ね、五方の辻に着くと13時をまわっています。付近に飯屋なども無く、酒屋でカップラーメンと魚肉ソーセージなど買ってお湯をもらいました。酒屋の裏手にベンチを借りて食すればこれもまたなかなかのランチ。こういうものも外で食うと何故か大層美味い。食後にホット缶コーヒーなんか飲んだりして。まあわざわざ新幹線でやってきてこんな風な食事をしてるわけですから贅沢なランチと言わば言えましょう。食後、西に歩を転じ、高舘山を目指しましたが、五方の辻で取るべき道を間違えて樽木ダムに出てしまいました。15:30頃那智熊野社に着きました。境内から遥か東を眺めると太平洋が見えました。見えてしまうと「行ってみたい」という気持ちが沸いてくるものですが、さてさて。
名取市遠望
熊野社の鐘を一つ撞いて広場を巡り、高舘城址の脇を通って下り、さらに北を目指します。名取川に出合う辺りに、二つの熊野神社があり、これで名取熊野三社をすべてめぐることができました。日も暮れて、雨が激しく降り始めました。例の如く青いレインポンチョに身を包み、南仙台駅に向う途中滑って転んだりしましたが、幸い怪我も傷も無く、JRで無事仙台に到着すると19:00をまわっていました。歩数も50000歩を越えました。
posted by けいりう堂 at 14:24| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚