2008年10月22日

檜原峠。。。

やはりこの「さくらのブログ」から近々引っ越しがしたいのです。何となれば、過去の書き込みに間違いを見つけて後日の訂正をすると、その再編集をした日の投稿を終えたことになってしまうわけですね。何の警告も出してくれないでそういうことをするのはどうかと思うのです。

さて、米沢街道です。米沢から檜原峠という山形から福島会津への県境に向かう道は現在廃道となっている模様なのですね。
1/25000地形図「白布温泉」をまじまじと見ていると、だんだん恐ろしくなってきました。綱木の集落から綱木川を3kmほど南へとさかのぼる辺りは標高900mくらいで、旧街道は中丸沢にほぼ沿って3つくらい小さな沢を横切るような感じです。この沢の入り組み方がなんだか伊豆の二本杉峠のふもと、そう、かつて私が二度ほど迷いかけた地形によく似ているのです。おそらくは砂防ダムなんかもあるのでしょう、地形図には描かれておりませんが。HPを見ると、峠の福島側はハイキングコースのようになっていますが山形側は手が入らず藪だという事でした。

この廃道を通らないで会津に向かう道はありますが、ずいぶんと迂回していて、檜原峠は通りません。

最終的には現地で様子をよく見た上で冷静な判断をもって行くか返すかの決断を迫られることでしょう。とりあえず今は地形図を見て幾分引いています。。。
posted by けいりう堂 at 20:17| Comment(0) | アルファ-ラルファ日記

2008年10月21日

けいりう堂島渡乃事(2)

PA110716.JPG「さくらのブログ」ってどうもカテゴリにかかわらず一日に記事一つしか書けないんですな。毎日更新してるわけじゃないけど、日が変わると書きたいことが何だったかわすれちゃうんだよな。それはともかく、とある方よりリクエストのあった長万部のかに飯です。
さて、10/12は空知川のほとりの実家にいます。夕べ程よく、というかかなり飲んだくれて少々遅い朝、いつもの習慣で「仮面ライダーキバ」を見ながら朝食食べるんですが「どれがライダーなの?」とか「なんでライダー同士が戦ってるの?」とか、平成ライダーを全く知らない弟がいちいち質問するのがウザい。まあ子供がも少し成長すれば一緒になって熱中するのかもしれませんけどね。

PA120754.JPG朝食後、父の案内で松浦武四郎の碑まで2kmほどの道を歩きました。父の歩く速度の速さにちょっと驚きつつ、ピンネシリとか石山とかの懐かしき「ふるさとの山」を眺めつつ、なぜ地元にいた頃にはもっと地元の歴史とか自然とかに触れる機会をもっと持たなかったのかなどと思いました。昔赤鉄橋と呼ばれていた空知川にかかる鉄橋は水色のような色にいつの間にか変わっていました。石狩川と空知川の合流点の近くに、その碑はありました。松浦武四郎がこの地を訪れたのは1858(安政4)年。車で来た弟夫婦と甥がすでに到着していました。

この後、さらに父と共に空知川の河原に沿った道を戻って行きました。河原の広い土地はパークゴルフやサッカーに使われている以外にはその敷地を持て余しています。東屋やベンチやテーブルがあるのを見ると、なんかもったいない気がします。やはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。

PA120789.JPG空知大橋の辺りで父は帰宅、私はさらに思いで深い滝川公園に向かいました。管理するリソースがなくて荒れ放題、と聞いていたのですが、人の手が入らなくなって昔あった小さな動物園やボート乗り場や売店などが無くなってしまったせいで、かえって自然を楽しめる公園となっているように見えました。淡麗な白樺の林も北国ならではで、懐かしく感じます。小中学の遠足で利用したキャンプ場の水場もちゃんと使えます。やはりやはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。
と思ったら釣り人のテントを見出しました。いいなあ。

PA120797.JPGこの公園を訪ねた動機の一つは、国木田独歩と石川啄木の碑を確認する事でしたので、その画像もアップしときましょうね。独歩がこの地を訪ねたのは1895(明治28)年、独歩26歳の頃で、「目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談すること」で、独歩はこの辺に移住することを考えて、当時の空知太駅を降りて三浦屋を訪ねたということでした。空知太駅というのはついさっき通った"赤鉄橋"の辺り、三浦屋は空知大橋の辺りにあったらしいです。この空知太という地はその頃は交通の要の地でもありました。
PA120834.JPG一方の啄木は、この地に降り立った訳ではなく車窓から空知川を見て、

 空知川雪に埋もれて鳥もみえず岸辺の林に人ひとりゐき

なる歌を詠んだようです。

公園を出ると北海灌漑溝のある辺りに出ました。昔溺死した女の子を慰霊する地蔵があり、この地に来たばかりの頃学校の先生に、この灌漑溝でだけは遊んではいけないとキツク注意を受けたのを思い出します。実家に向かって歩いているつもりがいつの間にか北泉岳寺に出てしまい、何かに誘われていたのかもしれません。ついでなので四十七士の墓を見て来ました。小高い丘で、石狩・空知川合流点を見下ろすようななかなか良い墓地のよう。

空知太会館にある上川道路(現国道12号線)開拓の碑に書かれた当時の開削に充てられた囚人の犠牲を想ったり私の通った小学校の玄関の前で校歌の彫られた碑を見たりして帰宅すると昼をまわっていました。こんな風なそぞろ歩きをするのにも私の故郷は良いところであったのです。もっとも、知った顔も減ってしまった今だからこそ気楽に歩けるというのもあるかもしれません。

まあそういうわけなので、次に訪ねる時はテントとストーブを持って行って、空知川の岸辺に野の宿を求めることにしたいと思います。この辺はさすがにヒグマも出ないことでしょう。


posted by けいりう堂 at 04:00| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2008年10月19日

けいりう堂島渡乃事(1)

ナッチャンWorld.JPG
10/9の夜中に横浜を出て、翌朝青森に着きました。そこから休航間近のナッチャンWorldに乗って函館に上陸し、さらに木古内へJR、バスでその先を松前へ。五街道行脚の終着点として、お伽草子の義経よろしく島渡りをいたしました。
 宿に着くと夕方近く、観光は翌日本格的に行うこととしてとりあえずお城だけ眺めてみると、ほほう。城から海が見えますな。こういうお城はちょっと珍しいような気がしました。宿のそばにある酒屋を訪ね、黒龍と松前城と秋田酒造のお酒を一本求めてこっそりと宿に持ち込みます。夕食も贅を尽くしたように見えるし、温泉付きで部屋も広い。ついこないだまでの貧相で汗臭い旅と比べると贅沢すぎて自分には勿体ないように思われてしまう。旅のスタイルが変わってから、幾分卑屈になりました。

松前の夜明け.JPG10/11。夜中に雷雨に襲われた松前。明け方には嘘の如く晴れたので、朝の5時ころ宿を抜け出しました。まずは海岸沿いの国道よりも一本内陸側の道を西に向かって歩けばなんとなく歴史の深さを感じます。熊野社やら永倉新八の住んでた後とか道内には珍しい孟宗竹林とか訪ね歩いてまた東へ。唐津とか博多とか、この辺にはなぜ九州と同じ地名がついているのでしょうか?


水たまり.JPG
だいぶ日が高くなってきました。何の変哲もない水たまりであっても、太陽の光が照り返すとなにか幸せな感じがするのですが、これって志が低いですかね?
お城のあたりに来ました。藩屋敷・藩主の墓所・寺町などそぞろ歩き、お城を眺むれば7時を回りました。朝飯を取りにあわてて宿に戻りました。



松前城.JPG朝食後、ばたばたと朝風呂に入ってから、宿に荷物を預けたまま大松前川沿いを上流に向かって歩きます。ゴローニンが幽囚されていたという徳山大神宮のそばに大館跡というのがあるのだ、と1/25000地図には書かれていますが、山道を歩いてもそれらしい跡がありません。やぶをこいで撤退。郷土資料館に行くと、私の到着に少し遅れて係りの方がやってきました。話をしていると、ここら辺りでもヒグマの目撃情報が聞かれるそうで、ゾッといたしました。夏には折戸浜のキャンプ場にも現れたそうで、蝦夷地の野宿旅の困難さを思わせます。見学した後『概説松前の歴史』という本を求めると、ここには常備していないようで、わざわざ車で届けに来てくれるよう手配してくださいました。しかしこの本、実はそのあと訪ねた松前城の中でも入手できたらしく、余計な手間を掛けてしまったようです。


松前の海.JPG昼過ぎにバスで木古内へ。そこからJRを函館で乗り換え、札幌に向かいました。実は今回の旅は帰省の旅を兼ねています。長万部のかに飯を車中で食べ、長い時間をかけて札幌へ、そして滝川駅へとさらにJRを乗継ぎ、空知川の岸辺にある実家に着くと午後9時ちょっと前。滝川駅から、昔よく通った道を歩いて帰る途中、とうとう雨に逢ってしまいました。空知大橋から辛うじて見える川面には厳冬の頃には湯気がたちます。

明日の朝は懐かしいこの辺りを歩いちゃおうかな、なんて。


posted by けいりう堂 at 04:41| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2008年10月18日

国会図書館で。

国会図書館に行ってきました。

081018_1601~0002.jpg

目的は、先回コピーを失敗した「山形県歴史の道調査報告書」の板谷街道部分の閲覧その他。
「北海道道路史」なる書物を発見。道路研究会会長は堂垣内直弘元北海道知事だったわけで。これの「路線史編」がほしいな。

おりしも国会図書館では「貴重書展」をやっていた。10年に1度の割合でやるというのでラッキーだった。さらに、ちょうどガイドツアーの時間だったので解説聞きながら展示を見ることができて、ラッキッキ。で、見てみるとやはり図録がほしくなるわけで。1800円。うむむ…。買っちゃったけど。

山東京伝や滝沢曲亭馬琴の本なんかも見ることができたので、やはり良かったんだろう。その後、神保町で檜原峠までの1/25000地図購入。伯剌西爾でコーヒー100gも購入。思ったより散財してしまってる。
posted by けいりう堂 at 21:33| Comment(1) | アルファ-ラルファ日記

2008年10月07日

会社帰りのナイト・ウォーク

19時前に会社を出て、一駅ふた駅くらい歩いてみるかと歩きだすうちに、根岸になり山手になり港の見える丘公園になり山下公園になり。雨上がりのせいか港の見える丘公園には霧が出ていた。

港の見える丘から夜景の海を見るのは初めてだった。

ここに来たことさえもう18年くらい振りだ。確か最初に来たのは入社直前、横浜の社員寮にやってきた時だったと思う。引越しの手順が悪くて蒲団が届かないうちに自分が届き、常春と思った横浜の3月は意外に寒く、寝袋にくるまって過ごしていたときの1日だと思う。昼間、山下公園から人形の家の前を通り過ぎ、港の見える丘へ行った。ブリキのおもちゃ博物館なんて言うのもどこかにあった。外人墓地も見たと思う。

あの時と違うのは自分の年と時刻と訪ねた順番。しかし変わらないものもある。それは公園はアベックだらけ、ということだった。
あれ。アベックは死語?カップル?カップルも死語?なんて呼べばいいんだ、奴らのこと。

時々夜景を見るのも好いものだ。私は美しい都市に住んでいたのだった。
posted by けいりう堂 at 07:06| Comment(2) | 夜を急ぐ人

2008年10月05日

国会図書館行って神保町行って。。。しかし。

次の遠征の街道は米沢街道と決めました。
これは福島の南、松川から奥州街道と別れ、米沢に向かいまた会津に向かう道です。これまでは奥州の道を縦長に歩いたので、またちょっと日本を横に歩いてみたいと思ったわけですし、会津にも行ってみたかったので。

この道は一度山形県に入ってまた会津に向って福島に入るので、都道府県毎に出している「歴史の道調査報告書」は福島の分が2冊、山形の分が1冊という風に分かれているわけです。

福島から坂谷境までのものは「日本の古本屋」経由で入手することができました。その続きは国会図書館に所蔵されていたので、土曜に複写しに行ったのでした。
「山形県歴史の道調査報告書」は米沢街道と板谷街道が1冊になっていました。で、私は何の疑問も抱くことなく米沢街道の部分を一部(全部は著作権違反になるのでできない)を複写して、それを持って神保町三省堂に行ったわけです。
 調査報告書に載っていた地図に相当する1/25000地図を探していったのですが、なんかおかしいんですね。福島につながってないじゃないか。

そこで思い至ったこと。

街道には、目的地に向かう名前がつくことが多い。

たとえば京街道は大阪から京にいたる道という意味の呼び方で、京都においては大阪街道と呼ぶべきものなわけです。

山形における米沢街道は、どうやら山形から米沢に向う道を意味しており、福島で米沢街道と呼ぶ道の続きは、「板谷街道」。。。

なんと。同じ本のま逆のところだけ複写してきてしまったじゃないですか。国会図書館のコピー代、高いのに…。

というわけでかなり無駄な動きをしてしまいました。

帰宅してから夕食。ベランダで無理やりジンギスカン。来週の連休は松前観光して何年ぶりかの帰省の予定です。
posted by けいりう堂 at 14:51| Comment(2) | アルファ-ラルファ日記