
「さくらのブログ」ってどうもカテゴリにかかわらず一日に記事一つしか書けないんですな。毎日更新してるわけじゃないけど、日が変わると書きたいことが何だったかわすれちゃうんだよな。それはともかく、とある方よりリクエストのあった長万部のかに飯です。
さて、10/12は空知川のほとりの実家にいます。夕べ程よく、というかかなり飲んだくれて少々遅い朝、いつもの習慣で「仮面ライダーキバ」を見ながら朝食食べるんですが「どれがライダーなの?」とか「なんでライダー同士が戦ってるの?」とか、平成ライダーを全く知らない弟がいちいち質問するのがウザい。まあ子供がも少し成長すれば一緒になって熱中するのかもしれませんけどね。

朝食後、父の案内で松浦武四郎の碑まで2kmほどの道を歩きました。父の歩く速度の速さにちょっと驚きつつ、ピンネシリとか石山とかの懐かしき「ふるさとの山」を眺めつつ、なぜ地元にいた頃にはもっと地元の歴史とか自然とかに触れる機会をもっと持たなかったのかなどと思いました。昔赤鉄橋と呼ばれていた空知川にかかる鉄橋は水色のような色にいつの間にか変わっていました。石狩川と空知川の合流点の近くに、その碑はありました。松浦武四郎がこの地を訪れたのは1858(安政4)年。車で来た弟夫婦と甥がすでに到着していました。
この後、さらに父と共に空知川の河原に沿った道を戻って行きました。河原の広い土地はパークゴルフやサッカーに使われている以外にはその敷地を持て余しています。東屋やベンチやテーブルがあるのを見ると、なんかもったいない気がします。やはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。

空知大橋の辺りで父は帰宅、私はさらに思いで深い滝川公園に向かいました。管理するリソースがなくて荒れ放題、と聞いていたのですが、人の手が入らなくなって昔あった小さな動物園やボート乗り場や売店などが無くなってしまったせいで、かえって自然を楽しめる公園となっているように見えました。淡麗な白樺の林も北国ならではで、懐かしく感じます。小中学の遠足で利用したキャンプ場の水場もちゃんと使えます。やはりやはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。
と思ったら釣り人のテントを見出しました。いいなあ。

この公園を訪ねた動機の一つは、国木田独歩と石川啄木の碑を確認する事でしたので、その画像もアップしときましょうね。独歩がこの地を訪ねたのは1895(明治28)年、独歩26歳の頃で、「目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談すること」で、独歩はこの辺に移住することを考えて、当時の空知太駅を降りて三浦屋を訪ねたということでした。空知太駅というのはついさっき通った"赤鉄橋"の辺り、三浦屋は空知大橋の辺りにあったらしいです。この空知太という地はその頃は交通の要の地でもありました。

一方の啄木は、この地に降り立った訳ではなく車窓から空知川を見て、
空知川雪に埋もれて鳥もみえず岸辺の林に人ひとりゐき
なる歌を詠んだようです。
公園を出ると北海灌漑溝のある辺りに出ました。昔溺死した女の子を慰霊する地蔵があり、この地に来たばかりの頃学校の先生に、この灌漑溝でだけは遊んではいけないとキツク注意を受けたのを思い出します。実家に向かって歩いているつもりがいつの間にか北泉岳寺に出てしまい、何かに誘われていたのかもしれません。ついでなので四十七士の墓を見て来ました。小高い丘で、石狩・空知川合流点を見下ろすようななかなか良い墓地のよう。
空知太会館にある上川道路(現国道12号線)開拓の碑に書かれた当時の開削に充てられた囚人の犠牲を想ったり私の通った小学校の玄関の前で校歌の彫られた碑を見たりして帰宅すると昼をまわっていました。こんな風なそぞろ歩きをするのにも私の故郷は良いところであったのです。もっとも、知った顔も減ってしまった今だからこそ気楽に歩けるというのもあるかもしれません。
まあそういうわけなので、次に訪ねる時はテントとストーブを持って行って、空知川の岸辺に野の宿を求めることにしたいと思います。この辺はさすがにヒグマも出ないことでしょう。
posted by けいりう堂 at 04:00|
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アルファ-ラルファ行脚