2008年10月21日

けいりう堂島渡乃事(2)

PA110716.JPG「さくらのブログ」ってどうもカテゴリにかかわらず一日に記事一つしか書けないんですな。毎日更新してるわけじゃないけど、日が変わると書きたいことが何だったかわすれちゃうんだよな。それはともかく、とある方よりリクエストのあった長万部のかに飯です。
さて、10/12は空知川のほとりの実家にいます。夕べ程よく、というかかなり飲んだくれて少々遅い朝、いつもの習慣で「仮面ライダーキバ」を見ながら朝食食べるんですが「どれがライダーなの?」とか「なんでライダー同士が戦ってるの?」とか、平成ライダーを全く知らない弟がいちいち質問するのがウザい。まあ子供がも少し成長すれば一緒になって熱中するのかもしれませんけどね。

PA120754.JPG朝食後、父の案内で松浦武四郎の碑まで2kmほどの道を歩きました。父の歩く速度の速さにちょっと驚きつつ、ピンネシリとか石山とかの懐かしき「ふるさとの山」を眺めつつ、なぜ地元にいた頃にはもっと地元の歴史とか自然とかに触れる機会をもっと持たなかったのかなどと思いました。昔赤鉄橋と呼ばれていた空知川にかかる鉄橋は水色のような色にいつの間にか変わっていました。石狩川と空知川の合流点の近くに、その碑はありました。松浦武四郎がこの地を訪れたのは1858(安政4)年。車で来た弟夫婦と甥がすでに到着していました。

この後、さらに父と共に空知川の河原に沿った道を戻って行きました。河原の広い土地はパークゴルフやサッカーに使われている以外にはその敷地を持て余しています。東屋やベンチやテーブルがあるのを見ると、なんかもったいない気がします。やはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。

PA120789.JPG空知大橋の辺りで父は帰宅、私はさらに思いで深い滝川公園に向かいました。管理するリソースがなくて荒れ放題、と聞いていたのですが、人の手が入らなくなって昔あった小さな動物園やボート乗り場や売店などが無くなってしまったせいで、かえって自然を楽しめる公園となっているように見えました。淡麗な白樺の林も北国ならではで、懐かしく感じます。小中学の遠足で利用したキャンプ場の水場もちゃんと使えます。やはりやはりそのうちアウトドアグッズ一式を携えて訪れるべきなのでしょう。そしてそのときはお外でジンギスカンを食べるべきなのです。
と思ったら釣り人のテントを見出しました。いいなあ。

PA120797.JPGこの公園を訪ねた動機の一つは、国木田独歩と石川啄木の碑を確認する事でしたので、その画像もアップしときましょうね。独歩がこの地を訪ねたのは1895(明治28)年、独歩26歳の頃で、「目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談すること」で、独歩はこの辺に移住することを考えて、当時の空知太駅を降りて三浦屋を訪ねたということでした。空知太駅というのはついさっき通った"赤鉄橋"の辺り、三浦屋は空知大橋の辺りにあったらしいです。この空知太という地はその頃は交通の要の地でもありました。
PA120834.JPG一方の啄木は、この地に降り立った訳ではなく車窓から空知川を見て、

 空知川雪に埋もれて鳥もみえず岸辺の林に人ひとりゐき

なる歌を詠んだようです。

公園を出ると北海灌漑溝のある辺りに出ました。昔溺死した女の子を慰霊する地蔵があり、この地に来たばかりの頃学校の先生に、この灌漑溝でだけは遊んではいけないとキツク注意を受けたのを思い出します。実家に向かって歩いているつもりがいつの間にか北泉岳寺に出てしまい、何かに誘われていたのかもしれません。ついでなので四十七士の墓を見て来ました。小高い丘で、石狩・空知川合流点を見下ろすようななかなか良い墓地のよう。

空知太会館にある上川道路(現国道12号線)開拓の碑に書かれた当時の開削に充てられた囚人の犠牲を想ったり私の通った小学校の玄関の前で校歌の彫られた碑を見たりして帰宅すると昼をまわっていました。こんな風なそぞろ歩きをするのにも私の故郷は良いところであったのです。もっとも、知った顔も減ってしまった今だからこそ気楽に歩けるというのもあるかもしれません。

まあそういうわけなので、次に訪ねる時はテントとストーブを持って行って、空知川の岸辺に野の宿を求めることにしたいと思います。この辺はさすがにヒグマも出ないことでしょう。


posted by けいりう堂 at 04:00| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2008年10月19日

けいりう堂島渡乃事(1)

ナッチャンWorld.JPG
10/9の夜中に横浜を出て、翌朝青森に着きました。そこから休航間近のナッチャンWorldに乗って函館に上陸し、さらに木古内へJR、バスでその先を松前へ。五街道行脚の終着点として、お伽草子の義経よろしく島渡りをいたしました。
 宿に着くと夕方近く、観光は翌日本格的に行うこととしてとりあえずお城だけ眺めてみると、ほほう。城から海が見えますな。こういうお城はちょっと珍しいような気がしました。宿のそばにある酒屋を訪ね、黒龍と松前城と秋田酒造のお酒を一本求めてこっそりと宿に持ち込みます。夕食も贅を尽くしたように見えるし、温泉付きで部屋も広い。ついこないだまでの貧相で汗臭い旅と比べると贅沢すぎて自分には勿体ないように思われてしまう。旅のスタイルが変わってから、幾分卑屈になりました。

松前の夜明け.JPG10/11。夜中に雷雨に襲われた松前。明け方には嘘の如く晴れたので、朝の5時ころ宿を抜け出しました。まずは海岸沿いの国道よりも一本内陸側の道を西に向かって歩けばなんとなく歴史の深さを感じます。熊野社やら永倉新八の住んでた後とか道内には珍しい孟宗竹林とか訪ね歩いてまた東へ。唐津とか博多とか、この辺にはなぜ九州と同じ地名がついているのでしょうか?


水たまり.JPG
だいぶ日が高くなってきました。何の変哲もない水たまりであっても、太陽の光が照り返すとなにか幸せな感じがするのですが、これって志が低いですかね?
お城のあたりに来ました。藩屋敷・藩主の墓所・寺町などそぞろ歩き、お城を眺むれば7時を回りました。朝飯を取りにあわてて宿に戻りました。



松前城.JPG朝食後、ばたばたと朝風呂に入ってから、宿に荷物を預けたまま大松前川沿いを上流に向かって歩きます。ゴローニンが幽囚されていたという徳山大神宮のそばに大館跡というのがあるのだ、と1/25000地図には書かれていますが、山道を歩いてもそれらしい跡がありません。やぶをこいで撤退。郷土資料館に行くと、私の到着に少し遅れて係りの方がやってきました。話をしていると、ここら辺りでもヒグマの目撃情報が聞かれるそうで、ゾッといたしました。夏には折戸浜のキャンプ場にも現れたそうで、蝦夷地の野宿旅の困難さを思わせます。見学した後『概説松前の歴史』という本を求めると、ここには常備していないようで、わざわざ車で届けに来てくれるよう手配してくださいました。しかしこの本、実はそのあと訪ねた松前城の中でも入手できたらしく、余計な手間を掛けてしまったようです。


松前の海.JPG昼過ぎにバスで木古内へ。そこからJRを函館で乗り換え、札幌に向かいました。実は今回の旅は帰省の旅を兼ねています。長万部のかに飯を車中で食べ、長い時間をかけて札幌へ、そして滝川駅へとさらにJRを乗継ぎ、空知川の岸辺にある実家に着くと午後9時ちょっと前。滝川駅から、昔よく通った道を歩いて帰る途中、とうとう雨に逢ってしまいました。空知大橋から辛うじて見える川面には厳冬の頃には湯気がたちます。

明日の朝は懐かしいこの辺りを歩いちゃおうかな、なんて。


posted by けいりう堂 at 04:41| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2008年09月23日

奥州街道、踏破。です。

9/21昼頃に青森につきまして、1日目は高野崎にてテント泊いたしまして、そのあとずうっと海岸沿いの良い風景を眺めつつ、9/22三厩に到着いたしました。

これでようやく松前海道の行脚が終了してしまったのですね。
うふふ。次はどこ行こうかなー。

というわけで、ご声援いただいた方&&地元でお世話になった方がた、ほんとにありがとうございました。

いくよー。これからも。
posted by けいりう堂 at 20:43| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2008年08月22日

奥州街道:残念ながらあと25kmほど残ってしまいました。

青森で朝まで飲んでビール瓶10本数えてしまったり、海岸やら神社のそばの人気のない公園なんかでエスビットストーブ使って飯食べたり、地域巡回バスに何度も乗ったり、たいてい断崖の上にある稲荷神社をいくつも訪ねたり、足の小指にマメか小指かわからないくらいでかいマメをこさえたりして、結局行脚は平舘灯台までとあいなりました。
でもなんとか機会作って秋には三厩にたどり着きたいと思います。実はもうすでに寄ってきたんですけどね。。。そんなことでもって、明日はちょっと近場で遊んできたいと思います。
posted by けいりう堂 at 22:41| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2008年08月06日

奥州街道のほとんど終わりに向けて。

ごぶさたです。けいりう堂です。

この週末から6日間、奥州街道最後の道中に舞い戻らんとしております。

遭難の心配とかないと思いますけど、一応以下が予定。

8/8:千曳・日本中央の碑を見物してから青森観光。
8/9:三内丸山遺跡と市内お寺巡りなど。
8/10:青森から平館。宿泊は不老不死温泉
8/11:平館灯台のあたりまで。宿泊・ペンションだいば
8/12:三厩到着。本州部分踏破予定。宿泊は竜飛崎のホテル。
8/13:岬を眺めてから帰宅。

五街道のほとんど最後ということになりますが、本当の最終目的地:松前はまた後の機会ということになりましょうか。

まあなんかそんなことでもって。
posted by けいりう堂 at 21:21| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年08月29日

06/8/1、吉岡から古川へ。

古川のホテルを出でて、駅前からバスで吉岡を目指そう…と思ったら、途中の音無というところまでしか行かないんですね、このバスは。まあとにかく行けるところまで行こう、ということで音無、8:49です。
音無バス停
とぼとぼと吉岡目指して歩く私。しかし30分ほど歩いて大衡という辺りにつくと、万葉バスというのがやってきて私を優しく吉岡へと導いてくれたのでした。
万葉バス
昨日つけ麺を食べたお店はまだ閉まっています。ここの前で缶コーヒーを飲み、煙草を吸って、これからの旅を想像するのでした。何しろここから北に向かって田んぼの真ん中を通ってお寺さんに行くと、その先は途絶しているらしいのです。しかし行けば行けるのかもしれない。双眼鏡で行く手を眺めてみても要領を得ないので、ともかくお寺を目指そうと、煙草をもみ消してちゃんとポケット灰皿に吸殻をしまい込んでいざスタート。
10:00過ぎ、昌源寺。昔の奥州街道はこの右脇を通っていたそうで、昌源寺坂と呼ばれていたそうですが、丁度境内を掃除していた住職さんに尋ねると、やはり道は失われているとのことでした。ここの先のもう一つの山道もやはり今は通れないということで、かなり東に遠回りすることになりそうです。悲しいことですが、街道の生涯にもいろいろな形があるのはやむを得ないことでしょう。
昌源寺山門
東に迂回しますと、「要害」という地名がありました。ここまで来るとあちこちに「要害」と呼ばれる地名があります。頼朝の奥州攻めを迎え撃った場所ということなのでしょうか。それとも大和時代まで遡るのか?宿題ができました。さて10:50。昌源寺住職には通れないと聞かされた道までやってきました。地図を見ると点線の道が描かれています。これは幅員1.5m未満の道ということで、山道なんかがこれで書かれてることが多いわけです。まあいけるトコまで行ってみるかというわけで、道端の看板をあえて無視して先に行って見ることにしました。まあ行けなくなったら引き返せば良い訳で。
この先は本当に行き止まりなのか?
藪の中を30分ばかり進みました。GPSが使えているので方角を間違えないというのは非常に安心ですね。くもの巣に絡まれつつやがて、整地中の広い場所に出ました。そしてその先には大勢のお年寄りが。
パークゴルフ場に出た!
旧街道は宅地とパークゴルフ場によって分断されていたというわけでした。丁度お昼なので、パークゴルフ場の食堂で肉蕎麦をいただいて、先を進みます。しばらく歩くと、旧街道に合流することができました。この地点には矛盾する二つの看板が共存しています。
矛盾する二つの看板
一体どうすればいいのでしょう。まあ私は藪をこいで歩いた後なので、ここを辿ってみる気にはなれませんでした。
12:30、雲善寺。12:40、須岐神社。ここで休憩。明治帝小休止所跡など通って、東北自動車道のガード下をくぐって自動車道沿いに北に行きます。昌源寺住職の話では、くぐる手前の道沿いを行くのが昔の道だったそうですが。
13:43、伊賀一里塚。片方しかなかったけれど、一里塚が残っているというのは、現代人の私が言うのもなんですが、懐かしい、という感じがします。
伊賀一里塚。
行く手はちょっとした坂道。頂上付近に、「明治天皇鑾輿(らんよ)航渡聖跡」なる碑がありました。明治帝は在位の間日本各地を巡幸なさったことで有名ですが、帝が仙台に着いた頃この地は大雨で多田川があふれ道は水浸しなので巡幸を延ばすことになろうとしたとき、それでは民に迷惑が掛かる、自分は濡れるのはいとわない、と帝がおおせられたので、この地では小舟を輿として消防組員16人が白衣をまとってこれを担ぎ、帝を渡らせたもうた、ということです。
明治天皇鑾輿航渡聖跡
さて、三本木に着きました。14:11。大豆坂の地蔵様にお参りしてから、道の駅やまなみで休息。三本木はひまわりが特産で、ひまわりの種の入った香ばしいソフトクリームをいただきました。もう古川は目の前。でもその前に舘の山公園に寄ります。ここは桑折城跡。もちろん何にもありませんが、古川の街が一望できます。うーん、まだ結構距離があるなあ。しかしもう登りも下りも無い、街中歩きです。おっと気になるポスターが。。。ぎゃはは。
ステレンジャー
黄色が太めというのはお約束ですけど、このお腹はヤバイ。「ヤバイ」といってもすごくイイという意味の若者言葉の「ヤバイ」ではありません。調べてみるとこの方々は全国で環境のために戦う公演を行なってるようですね。はじめて見た。グリーンもピンクもいるみたいです。黄色の名前は「食欲 満」はいはいお約束お約束。
16:41、瑞川寺。そして歌枕・緒絶の橋に着きました。16:49。
緒絶の橋
「しらたまのをだえのはし」などと言われるそうで、芭蕉もここを訪ねたかったようですが、松島の方に進路をとったためにここには寄られなかったとのことです。
ところで橋の向こうに見えている建物は、外装は新しいけれど古くからの建物なのだそうです。ここでは家庭料理の「はっと」を食べることができます。ちょっとお雑煮のようでもありますが、小麦粉を強く練り、数センチの平たい形にして煮たものです。甲府の「ほうとう」は白い粉をねって作るので「はくたく」と呼ばれていたものが変化したと聴いたことがありますが、この「はっと」というのもその類のようですね。腹の底から元気が出てくるような食べ物です。
この場所には他にも酒蔵を改造したいろいろなお店が入っています。まだできて間もなく、これからが期待されるところでしょうね。
満ち足りた気持ちになりましたが、あと一箇所だけ訪ねるべきところがあります。それは古川城址。古川小学校のあるところに、土塁だけが残っています。
駅に着くと18:00を回っておりました。今日の歩数45289歩。古川は明日から古川祭りということで、名残惜しくはありますが今回の旅はこの辺で。

でもまたお盆に来るんだもんね。
posted by けいりう堂 at 23:49| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2006年08月20日

7/29・奥州道中仙台1日目。

この日出発は遅く、仙台に着くとお昼。まずは荷物を置かせてもらおうとホテルに行くと、すでに部屋は用意できているということで早いチェックイン。今日は街道を進むのではなくて、仙台市内をうろつくことに決めています。駅のそばの朝市など冷やかしてから、いきなりタクシーに乗って青葉山の奥へと向かいました。そこは東北大学のキャンパス。理学部自然史標本館と書かれていますが、これは東北大学総合博物館の前身となるべき建物なのです。
東北大学自然史標本館
入口には沢山のサンゴの化石。展示室に入ると、天井に巨大な鯨の骨格標本がぶら下がっています。先カンブリア紀の奇妙な生物達の化石などもあり、展示室1階はほとんどが石の展示になっています。ヒスイなど見るといつぞやの塩の道の行脚を思い出してしまいます。小さいのでも買って置けばよかったかなあなんて。図鑑や教科書でしか見たことの無かった「月のお下がり」(巻貝の中に珪酸や石灰が満たされてできた化石。月のウサギのウンコだとされた)や「高師小僧」(沼地の植物の根に酸化鉄や水酸化鉄が凝集して高さ5cmくらいのコケシ状になった鉱物)なんかも見ることができて有意義でした。
帰り道はずっと青葉山を歩いて下りました。美術館の辺りから北に向い、広瀬川を越え、宮城県知事公館に行きました。ここの門は、旧仙台城の門なのです。
知事公館
さらに北の方に歩いていき、子平町というところへ行きます。ここには龍雲院というお寺があって、林子平(海国兵談作者・)、細谷十太夫(伊達藩隠密烏組大将・1907年没)万城目正(りんごの唄の作曲者)などの墓所です。並木路子さんの植えた樹があります。確認しなかったけど、多分林檎の樹だったのでしょう。
並木路子さん植樹の樹
境内には林子平考案の日時計などもありました。野外においてあるのでおそらく復元品なのでしょう。太い針金を折り曲げたものが南北に沿うように石版につけられていて、この針金の影が時刻を示すようになっています。
林子平の日時計
その後南に向かい、大崎八幡社を詣でました。社殿はきらびやか。奉納された数々の短冊が、七夕祭りの近いことを告げています。
大崎八幡社
次におとづれたのは仙台市民プール。泳ぎに行ったのではなくて、ここに「キリシタン殉教の碑」があると聞いていたからです。林の中の暗い道を歩くとそれがありました。元和9-10年のことだったそうです。撮影していると碑の裏側でごそごそ言う音がします。どうやら、ここを住処としている方がいらしたようです。画像の左側にブルーシートが見えていますよね。
キリシタン殉教の碑
殉教碑そばの古本屋なども冷やかして、ホテルまで歩いて帰りました。夕食のいいところを探してみましたがこれといったところが見つからず、結局ホテルの和食レストランでちょっと引っ掛けました。どれもこれもそれなりに美味いのですが、何か物足りないような気がします。仙台は東北随一の都市ですが、東北を代表するということが帰って仙台という地方としての特色を希薄にしているのではないかと思ったのです。でも、「ばくらい」(ほやとなまこの内臓=このわたの塩辛)は日本酒に良く合うのでした。
ばくらい
翌日も仙台観光。やはり博物館類似施設中心です。普通、松島とか多賀城とか行くんでしょうけどね。それはまた未来の楽しみということで。
posted by けいりう堂 at 21:54| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年06月19日

矢倉沢往還・大山参り

足もう一月以上前ですが。。。
5/6は朝早くから"本"の付かない方の厚木駅に向い、そこからこの日は大山を目指します。大山のケーブルカー乗り場に着くまででさえかなりの道程となるわけですが、まあすぐそばに見えてるから行っちゃおうかと。厚木から見ると結構高い。毎回の行脚で愛宕神社が高いところにあるから嫌だとか言ってるけど、ここの神社はそんなもんじゃない。何でも大昔伊豆半島が海のかなたからやってきて日本にぶつかったときに盛り上がったのが丹沢の山々なんだそうで。。。マメ知識だよ!ではこれより関東一人旅連合ひとり緊急集会を行なう。厚木駅朝6時だよ!
さて相模川を渡りまして、厚木の渡し場跡に来ました。渡辺崋山の記念碑などもあるけど、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツ。どういう状況なんだかわかりません。
あぶないのはお前だ
6:30厚木神社で旅の安全を祈願。蚤の市があるらしく人出が多い。南下して厚木熊野神社でまた安全祈願。ここには崋山「厚木六勝図」熊林の暁烏(ゆうりんのぎょうあ)を記念する碑があったけれども、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツ。全国どこに行っても消防団のシャッター絵は面白いものが多い。時間が早かったり遅かったりしないと開いちゃってて見られないこともあるが。この手の画像も結構一杯になってきたと思うからそのうちギャラリーでも作りますか。消防シャッター絵・厚木
消防シャッター絵・厚木2
時刻そろそろ9時。行く手には雄大な大山が見える。けど、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツで。
いや、案外美味いんじゃないかと思うんですよ。
店の名も「だんごや」とフルッテル。時間早くて開いてなかったけど。

…え?なんか風情が無い?そうですか?わたしにはこういうものも道端の道祖神も雄大な山々も皆同様に旅情を誘うものたちなのですが…。そうですね、人生終わりに近づいてますから何でも受容できるようになってきたんでしょうね。先を急ぎましょう。老い先も短いようだし。
消防シャッター絵・厚木その3
なんつっといてまたこんなのに目が惹かれてしまうんですねえ。要するに死ぬまでこんな感じって事ですか。10:00、子安神社。愛甲石田です。子安神社の道祖神
神社の木陰で足にバンテリン塗って休憩。まだまだ今日という日は続きます。再び歩き出します。東海大学病院の辺りで大山をパチリ。
大山遠望あれに登るのかと思うとやはり引いてしまいますね。でも、お不動さんが「早く来い来い」とうながしてますので。
大山道標
へへへ、まだだよー。まだ寄り道してくんだよー。と言うわけで式内社高部屋神社に寄ってみました。社宝の鐘は県立神奈川博物館に貸し出し中…。これはこの間見に行った特別展「神奈川の神道美術」のための貸し出しでは。うーん、見たのかなあ、俺。そうこうするうちにもう伊勢原ですね。大田道灌公のお墓参りです。
道灌公墓所に続くせせらぎの道。
普済寺、咳止め地蔵など訪れるとそろそろお昼。道は心なしか傾斜がきつくなっていくようです。石倉橋の道標の辺りから山道の風情は強まって。6-7年ばかり前にふもとから登山したときの記憶も何となくよみがえってきたような気がします。そろそろ腹ごしらえをしなくてはと思っていると蕎麦屋発見。なめこおろし蕎麦大盛りを頼んだら、おお、確かに大盛り。
馬の餌かと思った
まあ完食しましたが。食べ過ぎも良くないですよね。神聖なお山にゲロしちゃまずい。13:30、比々多神社。ここでこないだ仙台で買ったデジカメ落とす。この日はちゃんと動いてたけど、後日になって液晶ディスプレイにひびが入ってたことが判明しました。もうやだ〜(悲しい顔)
そしてやっと登山口についたら午後3時。そしてわたしの目を惹いたのは…
消防シャッター絵・大山
旅情感じますよね?さてここから、ケーブルカーには乗らずに歩いて登るのですが、相当くたびれてますので、男の癖に女坂を登ります。道しるべに「らくらく女坂」とか書いてますけど、女坂だってらくらく登れるというほどじゃない。何度も休みながらヘタレ登山の末、大山寺に到着。ここは初訪問です。雨降山大山寺
さらに登って16:00、阿夫利神社下社到着。頂上まではさらに時間が掛かるゆえ、残念ながら今日はここまでです。さようなら皆さん。
阿夫利神社下社
でも実はケーブルカーで下山してから後、秦野の方へずんずん歩いて、伯母様のバス停を見たり、ダイドーの自販で初めて当たりが出たり、三宮比々多神社に寄ったりして最後鶴巻温泉の陣屋で打ち上げやったりしたけど、省略。
posted by けいりう堂 at 10:04| Comment(5) | アルファ-ラルファ行脚

2006年05月04日

奥州街道紀行・秋保温泉・名取から仙台まで(5/2)

足朝の5:00、秋保の朝はひんやりしていました。やっぱりせっかく来たのに温泉で飲んだくれるだけじゃ物足りないじゃないですか。そこでいつもの歩き装束に着替えて山形の方向に向いて歩き出しました。着物や制服を着た女性何人かとすれ違い、湯元の旅館は今が出勤時間のようです。軽く流して朝風呂浴びるか、というくらいのつもりで出てきたのでしたが、昨日海辺で見た名取川が狭い谷合を流れているのを見るとどうにも足が止まらない。秋保大滝までは距離がありすぎるので、神ヶ根温泉の辺りから二口街道を湯元方面に引き返しました。この辺りは桜並木があり、名取川の河原に出ることができます。ここで少し休憩。
秋保・名取川
宿に戻ると万歩計が1万歩を記録していました。ちょっとのつもりがつい本気の歩きになって、ちょっと大人気ないですかね。朝食を美味しくいただくと8時。喫茶コーナーが開いていたので珈琲をいただきました。8:30。そして朝風呂に。夜中の間に男女の入れ替えがあったので夕べとは違うお湯に。朝から風呂に入ると疲れが出てこれからの歩きに支障が無いかと少し心配でしたが。そして9時過ぎに宿を出て、磊磊峡の辺りまでまた少し歩きます。途中、秋保・里センターというのがあり、ここで散策マップを幾つか入手しました。昔は仙台からここまで鉄道が通っていたそうです。その先に覗き橋という幾分淫靡な名の橋があり、旅人はこの橋からの渓谷の眺めに見入ることが多くその名がついたということでした。覗いてみると、特に淫靡なものが見えたというわけでもありませんでした。
覗き橋から覗いた名取川
覗き橋からは渓谷沿いの遊歩道を歩きました。奇面岩、天斧岩、三筋の滝などの見所が看板で表示されています。「真二つに天斧巌をつんざきぬ三万年前のあけぼの」と土井晩翠が詠んだのはこの辺りでしょうか。上手いこと言います。三万年前とか言うと「創聖のアクエリオン」を思い出しますね。あれは1万2千年前でしたか。滝不動の辺りで遊歩道が終わりになりました。ここからバスで仙台へと戻ることにします。バスを待ちながら停留所付近をうろついていたらこんな看板が。
こ、怖い…
権太、三太衛、茂久吉とは一体誰なのでしょう?犬の名前のような気もしますが、案外屈強な男達かも…いやいや、徘徊してるというのだからボケの始まったご老人なのかもしれません。遊び相手を探してるのだそうです。寂しがりなのでしょうか。「注意を怠  るべし」というのは、警戒せずに友達になってあげて欲しい、と言う意味でしょうか。秋保の謎に首をかしげている間にバスが来ました。
バスは長町を経由して仙台駅へ行きます。長町には仙台から一つ南の駅がありますから、そこで降りて軽く食事(駅の立ち食い蕎麦。蕎麦は良いですね。理想的なダイエット食だと思います)して名取に再三戻りました。三日目にしてやっと奥州道中再開と言うわけです。GWの行楽客を意識してでしょうか、駅のホームにはてるてる坊主が。雨降ったら首をちょん切るぞ。
長町坊主
12時過ぎに名取につきました。公民館まで少し引き返して衣笠の松を見物。この名は木戸孝充の歌にちなむそうです。「大君の立ち寄りましし陰なれば衣笠の松とこそいうなかりけれ」衣笠は貴人に用いる柄の長い傘。「けれ」は逆接の接続助詞。わたしには桂小五郎が衣笠の松と言うと言ったのか言わないと言ったのかがわからないのですが…。そこから30分も歩けばもう仙台市に入り、広瀬橋には14:30頃着きました。橋の袂に橋供養の石碑があります。根岸の長者の娘という人が人身御供となって橋が架かったという橋姫伝説があるのでした。
広瀬川
川を渡って旅立稲荷をお参りして、河原町・南材木町・南鍛冶町と街中を進み三宝荒神社を詣で、仙台藩校のあった泰心院など訪れるといつの間にか16時をまわっています。これはまずい!何がまずいかと言うと、そう、博物館の類が入場を締め切る時間が迫っているのです。あわてて田町でタクシーを拾って榴岡(つつじおか)公園に向いました。歴史民俗資料館は入場16:15まで。嗚呼,間に合った。ここは旧陸軍第四連隊の兵舎で、そういう関係の資料も多く所蔵されていました。色々眺めていると閉館間際に入ってきた人が怒鳴り散らしているのが聞こえてきました。閉館まであまり時間がないと職員の方に言われたことが気に食わなかったようです。サービスを受ける立場としての意見を述べているようなのですが…静かにしろよな(ト、私も怒鳴る、ただし心の中で)。歩き疲れでわたしも少々怒りっぽくなっているようです。ここで史跡に関わる資料を2冊ほど入手して、国分寺跡をまわるとかなり風が冷たくなっています。次回は青葉城や市内の博物館をぐるぐる回るところからスタートです。多分梅雨時に訪れることになるのでしょうが、街中歩きだからまあ、いいかな?仙台って梅雨はどうなんだろうとか、秋保に行ったから今度は作並かな、とか、博物館の閉まっている月曜を避けて来なくては、とか、まあいろいろ考えつつ混雑している新幹線に乗って都会に帰りました。この日家に着いた時点での歩数、43797歩。お疲れっしたー。
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2006年05月03日

奥州街道紀行・名取散策その1

足4/30(日)。始発の電車で宮城県名取に向いました。先回ここで名取の史跡の資料を入手したので、今日はこれを参照しながら奥州街道の西側を散策します。まずは南に歩を進め、十三塚遺跡へ。ここは公園になっており、野球場で試合をやっていました。楽隊が来ていないようで、部員達がパーパーパー♪と"さくらさくら"の曲でトランペットを真似て応援していました。公園内にも桜が。
十三塚の桜
十三塚は縄文から古墳時代までの複合遺跡でした。その少し北の墓地の中には十三仏の石塔があるのですが、特に説明板なども無く、上から1/3くらいのところでぽっきり折れたまま放置されていると言った感じでした。残念には思いますが、余所者には知れない事情もあるのかも知れません。
この近くに旧中沢家の建築があります。由緒は良くわからないそうですが、18世紀後半のもので「名取型」と呼ばれるこの地方特有の様式だそうです。建屋の世話はシルバー人材センターの方が行なっており、付近の史跡のことを少々語り合いました。この日はお話ボランティアの方もここを借りて方言をたっぷり使って子供に昔話を聞かせていました。流暢な方言の語りは建屋の古さにぴったりと合うはずのものなのでしょうが、皮肉屋の旅人は何故か違和感を感じてしまったようです。
旧中沢家住宅
ここよりがんセンターの周囲を回って、笠島廃寺跡、芭蕉ゆかり(とは言え道が悪くて芭蕉自身は訪ねなかったようですが)の道祖神神社、そして藤原実方朝臣の墓を訪ねました。先回街道沿いに「笠島はいずこ」の芭蕉句碑を見ましたが、実際に訪れることができたわけです。実方墓は薄暗い林の中で塚の上に一本の竹を差した簡素なもので、時代は全く違いますが、正月に深草で訪ねた元政上人の墓を思い出しました。実方さんは道祖神社の前を馬に乗ったまま過ぎようとして神罰に遭いなくなったということです。
藤原実方朝臣墓
北上し、悲恋の物語の伝わる幾代・小佐治の墓を訪ね、五方の辻に着くと13時をまわっています。付近に飯屋なども無く、酒屋でカップラーメンと魚肉ソーセージなど買ってお湯をもらいました。酒屋の裏手にベンチを借りて食すればこれもまたなかなかのランチ。こういうものも外で食うと何故か大層美味い。食後にホット缶コーヒーなんか飲んだりして。まあわざわざ新幹線でやってきてこんな風な食事をしてるわけですから贅沢なランチと言わば言えましょう。食後、西に歩を転じ、高舘山を目指しましたが、五方の辻で取るべき道を間違えて樽木ダムに出てしまいました。15:30頃那智熊野社に着きました。境内から遥か東を眺めると太平洋が見えました。見えてしまうと「行ってみたい」という気持ちが沸いてくるものですが、さてさて。
名取市遠望
熊野社の鐘を一つ撞いて広場を巡り、高舘城址の脇を通って下り、さらに北を目指します。名取川に出合う辺りに、二つの熊野神社があり、これで名取熊野三社をすべてめぐることができました。日も暮れて、雨が激しく降り始めました。例の如く青いレインポンチョに身を包み、南仙台駅に向う途中滑って転んだりしましたが、幸い怪我も傷も無く、JRで無事仙台に到着すると19:00をまわっていました。歩数も50000歩を越えました。
posted by けいりう堂 at 14:24| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年04月25日

矢倉沢往還・海老名〜厚木(4/22)

足近頃は花曇どころか嵐の春と言う風情ですが、4/22(土)は好天に恵まれました。この日も遅めの出発。前回の到着地点、神奈川県の海老名にやってまいりました。海老名と言えば国分寺。国分寺と国分尼寺跡を訪れるべく、先日訪れた逆川の史跡の碑まで一度戻り、目久尻川沿いに北に向って歩きました。すると河童がいました。この川に昔現れたという伝承があるようです。橋の欄干の2匹の河童は地元の方の贈り物でしょう、帽子とちゃんちゃんこを身に着けて澄ましています。
河童の欄干
西に歩を転じて国分尼寺跡に着きました。ご近所のお嬢さん方がくつろいでいました。聖武帝の頃立てられた金堂跡には今は庚申堂がありました。
国分尼寺のかしまし娘
お昼にお蕎麦をいただいてから、国分寺跡を訪れました。ここは公園として再利用されていますが、要石などが発掘調査の後復元されています。史跡を公園として再利用するのは私には良い思いつきのように思えます。単に囲われた土地としてではなく、子供時代に遊んだ親しい公園の記憶として史跡が未来に続く命を約束されたかのように見えるのです。
国分寺・金堂のあった辺り
その後少し南下して、ひさご塚古墳を訪れました。駅より南の地域には古墳や中世の舘跡などが点在しています。ひさご塚の近くには銘菓「ひょうたん山最中」を売る菓子屋があり、話の種に3種を一個ずつ求めましたが、帰る頃にはリュックの中で無残に潰れて瓢箪やらへちまやらわからぬ有様と成り果てました。
再び矢倉沢往還に戻ります。国分寺跡の東に隣接して、郷土資料館「温故館」があります。近代の役場の建物がそのまま利用されており、これも未来に続く命を与えられた史跡の例と言えるでしょう。学芸員の方が国分寺のことを丁寧に説明してくださいました。矢倉沢往還をずっと歩いていると言うと、以前溝口のふるさと館でコピーさせていただいた大山街道・R246ネットワーク交流会発行のパンフレット全4部を分けてくださいました。平成製と思われますが増刷されていないので今や貴重な交通資料です。ついでに海老名の庚申塔や地蔵などの資料を都合3000円ばかり求めました。郷土資料館を訪れることは多少時間がかかるとしても思わぬ史料にめぐり合うこともあるので、欠かせません。
温故館
この時点でもう16時をまわってしまいましたが、少しでもと西へ向いました。海老名氏の墓所を探すうちにだいぶ暮れて来ました。今日も暖かい日でした。季節はもうこんな花の咲く頃です。
菖蒲ですか?あやめですか?かきつばたですか?
今日のうちにせめて相模川を渡ろうと思いましたが、堤防をうろついているうちに随分暗くなったので、厚木から帰ることにしました。相模川・中津川・小鮎川の三川合流地点の西側に見えるのは、あれが大山、矢倉沢往還のハイライトです。
あれに登るのかと思うとちょっと引きますけど
というわけで駅一つ分しか進みませんでしたけど今日もたっぷり歩きました。次回は多分GWの終わり頃、大山の様子をご報告できることでしょう。
posted by けいりう堂 at 23:38| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年04月17日

矢倉沢往還・長津田〜海老名

暖かくなったので、いつも草ぼうぼうでお隣さんに迷惑かけている庭を掘り起こして笹をむしりとって、山椒を植えました(左)。そばには前からほったらかしにしているキャッツミントがけなげに生えています(右)。キャッツミントは別名キャッツニップと言い、猫が好むのだそうです。別名「猫のかみかみ」。萌える名前ですね。ずっと庭に生えていて、しかもずっと猫を飼ってるというのに、最近まで知りませんでした。
庭の山椒とキャッツミント
さて、4/15(土)は矢倉沢往還・長津田から西へ。なかなかの好天です。実は遅く起きたため、出かけたのは10時をまわった頃でした。我が家から長津田までは30分ほど。駅の周りを少しうろついたらもうお昼。そばをいただいてあとは日が暮れるまで歩き続けるのです。しばらく歩くと、ついこの間後にしたばかりと思った東京にまた入りました。町田市です。ここに銀河歩道橋と言うのがありました。最近見た『雅楽戦隊ホワイトストーンズ』で見た厚別川を思い出し独りニヤニヤする訳ですが、道行く人の誰もその訳を知らないことでしょう。このときのわたしは矢倉沢往還の上で最も怪しい人物だったことと思います。このそばの公園には明治20年に作られた近代水道の切れ端が展示されています。
手前彦星、向こう織姫
先へ進んだ時、鶴間の一里塚を見逃したことに気づいて戻って見に行きました。わたしの調べた矢倉沢往還からは500mばかり北に外れています。往還はここを通っていたこともあったと言うのでしょうか?
鶴間の一里塚.JPG
15:00頃、境川を渡って大和市に入りました。観音寺には猫が一杯。
日向の境内は絶好のくつろぎ場。
大和には旧小倉家を復元した「下鶴間ふるさと館」があり、往還の往時を偲ぶことができました。
17:00を回った頃、座間市の東原桜並木に着きました。しかしすでに桜の時期は終わっています。きっと大山桜もすでに散っていることでしょう。かくして18:00を過ぎた頃、海老名市に入りました。今日の旅はここまで。昼近くからのスタートの割には結構な距離を進むことができました。あと2回のうちには、大山の頂上に着いていることでしょう。
posted by けいりう堂 at 23:11| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2006年04月10日

奥州街道紀行(4/2)

4/2、日曜。ホテルで『交響詩篇エウレカセブン』最終回と『仮面ライダーカブト』を見てから宮城・槻木(つきのき)に向いました。この日は朝から曇り。天気予報は当たりのようです。想い出深いものとなった白石川もついに阿武隈川に合流し、しばらくは阿武隈川に沿って歩きます。
阿武隈川堤防。河原には畑。
お昼少し前に岩沼市に入り、千貫神社のある辺りへとエクスカージョンしたころに結構な雨が降ってきました。そこで4号線沿いの日本食レストランに避難して食事。若竹の子が春を想わせる結構豪勢なランチとなりました。午後は日本三大稲荷の一つと言われる竹駒神社へ。その北西には、芭蕉のおとづれた歌枕、二木の松がありました。「桜より松は二木を三月越し はせお」
二木の松にて
雨はほぼ上がり、検断(伝馬など宿駅関連の仕事を取り締まる役目)屋敷跡などを眺めて先を行き、午後三時頃に名取の館腰神社の手前でまた芭蕉の句碑を見出しました。「笠島はいずこ皐月のぬかり道 はせを」
神社の東5kmには仙台空港があり、北側には隣接して雷神山古墳があります。東北では最大規模の前方後円墳です。木立で薄暗い崖沿いの道を登れば、古墳登場。
雷神山古墳。前方部から後円部を臨む。
夕方、名取の駅に着く頃にはまた雨になりましたが、レインポンチョがあれば何の問題にもなりません。駅にはインターネットや読書しながら電車を待つことのできる待合所があり、ここで名取の文化財に関するパンフレットを見つけ、コピーしました。次回はここから。意外に文化財が点在しています。仙台まであと12kmほどですが、一日でたどり着けるかどうか。
以下、ゴールデンウィークに続く。多分。
posted by けいりう堂 at 22:58| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

奥州街道紀行(4/1)

足新しい期になって早速奥州に出かけてしまったエイプリルフールの日。大河原の一目千本桜が咲くにはわずかに早かったようですが、とてつもなく良い天気でした。午前中のうちに韮神山の芭蕉句碑など訪れ、お昼はヒレカツ。午後にはまたしても桜の名所である船岡城址を訪れました。遠くから山頂に見えた平和観音までヒイヒイ言いながら登り、記念ショット。城址のそばには郷土館などもあって歴史の勉強ができます。ここらには軍事工場があったのですね。
alpha_funaoka.jpg
山登りでなかなかくたびれたので、あとの旅はゆるゆるとヘタレ攻め。東北リコーのあたりを歩いていると、上空を飛行機が飛んでいったようです。
alpha_plane.jpg
槻木というところに着いて、JRでなぜか福島まで行きます。定宿の風情となった駅から徒歩10分足らずのホテルに宿泊。夜はホテル1Fの飲み屋で管を巻く。お店の人々ともすっかり知り合いになってしまいました。旅は明日も続く。アップがいつになるかは不明。
posted by けいりう堂 at 02:06| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2006年03月31日

3/25:矢倉沢往還・宮前平〜長津田

足もうすぐ新学期と言う早春の晴の日(3/25)に矢倉沢往還(大山道)宮前平〜長津田を歩きました。始めに宮前平駅前の八幡社にお参りしました。と書いてみたものの、この言い方なんかおかしいことに気づきました。この地はたぶんこの八幡社の前にあるから宮前平と呼ばれるはずで、だからさっきの言葉は『お宮の前の駅の前のお宮』って言ったのと同じことで、自己撞着的な説明になってしまいましたことを深くお詫びいたします。なんて歩き始めから冗長になってしまいました。先回はこの辺りから鷺沼にかけては日が暮れてから歩いたために、笠付き馬頭観音など幾つかの石造物を見逃してしまいましたが、今回はそれらを見つけて歩きました。荏田に着くと丁度お昼時。「ぐらすうっど」というお店でスパミート大盛りが思いの他美味。
再び歩き出せばちらほらと桜も咲いています。ウォーキングに出てきてよかったと思うひと時。
060325_1.jpg

鶴見川を渡り、柿の木台で古い榎を見ました。この辺りは昔一里塚であったらしいです。そのすぐ先のスナックで青い酒瓶の木が生えていました。
060325_2.jpg

医薬神社のそばの公園の入口には、なんだかわからないキャラクターが描かれています。一見ユーモラスですが、眺めているうちに日野日出志の漫画のキャラみたいに見えてきて怖くなりました。
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夕暮れ、長津田に着きました。街道の東側にある王子社などを詣でて、駅そばの居酒屋で神奈川の地酒「隆」というのを飲みました。次の機会には長津田の地酒「ながつた」を飲んでみたいです。この日の歩き25000歩ほど。
posted by けいりう堂 at 02:03| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚