2007年09月12日

綱島街道。

Tsunashima_Kaido_s.pngずい分お久しぶりです。こないだの日曜に、綱島街道を歩いてまいりました。近所を通っている道なのであちこち歩いたことはありましたが、ぜひ一度通しで歩いてみたいな、と。朝の8時に横浜駅を出て、溝口に着いたのは午後5時ちょっと前でした。「港北区史」を参考に道を確定しました。細い線の部分は現在消失している部分です。クリックすると拡大画像を表示します。
posted by けいりう堂 at 23:45| Comment(0) | アルファ-ラルファ日記

2006年08月30日

パパ好み。

先日同僚のデレッキさんが自分の部所の新人さんを紹介してくれたのだが、この女性は古川出身でありまして、名物パパ好みのことを当然ご存知だったわけです。
ところで、このパパ好みのHPがしばらく閲覧できなかったのだが、今日アクセスしてみると、おお、見れた。

http://www.papagonomi.com/

天地総子とデュークエイセスの歌うテーマソングが聴けて、ナイスでするんるん

それにしてもパパ好み、僕としては良くあるおつまみあられの類だと思ってたのだが、あげた人たちには結構好評だったりする。名物というだけのことはある。
posted by けいりう堂 at 21:03| Comment(2) | アルファ-ラルファ日記

2006年08月29日

06/8/1、吉岡から古川へ。

古川のホテルを出でて、駅前からバスで吉岡を目指そう…と思ったら、途中の音無というところまでしか行かないんですね、このバスは。まあとにかく行けるところまで行こう、ということで音無、8:49です。
音無バス停
とぼとぼと吉岡目指して歩く私。しかし30分ほど歩いて大衡という辺りにつくと、万葉バスというのがやってきて私を優しく吉岡へと導いてくれたのでした。
万葉バス
昨日つけ麺を食べたお店はまだ閉まっています。ここの前で缶コーヒーを飲み、煙草を吸って、これからの旅を想像するのでした。何しろここから北に向かって田んぼの真ん中を通ってお寺さんに行くと、その先は途絶しているらしいのです。しかし行けば行けるのかもしれない。双眼鏡で行く手を眺めてみても要領を得ないので、ともかくお寺を目指そうと、煙草をもみ消してちゃんとポケット灰皿に吸殻をしまい込んでいざスタート。
10:00過ぎ、昌源寺。昔の奥州街道はこの右脇を通っていたそうで、昌源寺坂と呼ばれていたそうですが、丁度境内を掃除していた住職さんに尋ねると、やはり道は失われているとのことでした。ここの先のもう一つの山道もやはり今は通れないということで、かなり東に遠回りすることになりそうです。悲しいことですが、街道の生涯にもいろいろな形があるのはやむを得ないことでしょう。
昌源寺山門
東に迂回しますと、「要害」という地名がありました。ここまで来るとあちこちに「要害」と呼ばれる地名があります。頼朝の奥州攻めを迎え撃った場所ということなのでしょうか。それとも大和時代まで遡るのか?宿題ができました。さて10:50。昌源寺住職には通れないと聞かされた道までやってきました。地図を見ると点線の道が描かれています。これは幅員1.5m未満の道ということで、山道なんかがこれで書かれてることが多いわけです。まあいけるトコまで行ってみるかというわけで、道端の看板をあえて無視して先に行って見ることにしました。まあ行けなくなったら引き返せば良い訳で。
この先は本当に行き止まりなのか?
藪の中を30分ばかり進みました。GPSが使えているので方角を間違えないというのは非常に安心ですね。くもの巣に絡まれつつやがて、整地中の広い場所に出ました。そしてその先には大勢のお年寄りが。
パークゴルフ場に出た!
旧街道は宅地とパークゴルフ場によって分断されていたというわけでした。丁度お昼なので、パークゴルフ場の食堂で肉蕎麦をいただいて、先を進みます。しばらく歩くと、旧街道に合流することができました。この地点には矛盾する二つの看板が共存しています。
矛盾する二つの看板
一体どうすればいいのでしょう。まあ私は藪をこいで歩いた後なので、ここを辿ってみる気にはなれませんでした。
12:30、雲善寺。12:40、須岐神社。ここで休憩。明治帝小休止所跡など通って、東北自動車道のガード下をくぐって自動車道沿いに北に行きます。昌源寺住職の話では、くぐる手前の道沿いを行くのが昔の道だったそうですが。
13:43、伊賀一里塚。片方しかなかったけれど、一里塚が残っているというのは、現代人の私が言うのもなんですが、懐かしい、という感じがします。
伊賀一里塚。
行く手はちょっとした坂道。頂上付近に、「明治天皇鑾輿(らんよ)航渡聖跡」なる碑がありました。明治帝は在位の間日本各地を巡幸なさったことで有名ですが、帝が仙台に着いた頃この地は大雨で多田川があふれ道は水浸しなので巡幸を延ばすことになろうとしたとき、それでは民に迷惑が掛かる、自分は濡れるのはいとわない、と帝がおおせられたので、この地では小舟を輿として消防組員16人が白衣をまとってこれを担ぎ、帝を渡らせたもうた、ということです。
明治天皇鑾輿航渡聖跡
さて、三本木に着きました。14:11。大豆坂の地蔵様にお参りしてから、道の駅やまなみで休息。三本木はひまわりが特産で、ひまわりの種の入った香ばしいソフトクリームをいただきました。もう古川は目の前。でもその前に舘の山公園に寄ります。ここは桑折城跡。もちろん何にもありませんが、古川の街が一望できます。うーん、まだ結構距離があるなあ。しかしもう登りも下りも無い、街中歩きです。おっと気になるポスターが。。。ぎゃはは。
ステレンジャー
黄色が太めというのはお約束ですけど、このお腹はヤバイ。「ヤバイ」といってもすごくイイという意味の若者言葉の「ヤバイ」ではありません。調べてみるとこの方々は全国で環境のために戦う公演を行なってるようですね。はじめて見た。グリーンもピンクもいるみたいです。黄色の名前は「食欲 満」はいはいお約束お約束。
16:41、瑞川寺。そして歌枕・緒絶の橋に着きました。16:49。
緒絶の橋
「しらたまのをだえのはし」などと言われるそうで、芭蕉もここを訪ねたかったようですが、松島の方に進路をとったためにここには寄られなかったとのことです。
ところで橋の向こうに見えている建物は、外装は新しいけれど古くからの建物なのだそうです。ここでは家庭料理の「はっと」を食べることができます。ちょっとお雑煮のようでもありますが、小麦粉を強く練り、数センチの平たい形にして煮たものです。甲府の「ほうとう」は白い粉をねって作るので「はくたく」と呼ばれていたものが変化したと聴いたことがありますが、この「はっと」というのもその類のようですね。腹の底から元気が出てくるような食べ物です。
この場所には他にも酒蔵を改造したいろいろなお店が入っています。まだできて間もなく、これからが期待されるところでしょうね。
満ち足りた気持ちになりましたが、あと一箇所だけ訪ねるべきところがあります。それは古川城址。古川小学校のあるところに、土塁だけが残っています。
駅に着くと18:00を回っておりました。今日の歩数45289歩。古川は明日から古川祭りということで、名残惜しくはありますが今回の旅はこの辺で。

でもまたお盆に来るんだもんね。
posted by けいりう堂 at 23:49| Comment(2) | アルファ-ラルファ行脚

2006年08月20日

7/31・奥州道中仙台から吉岡宿へ。

いよいよ北を目指すウォーキングが始まります。とは言え昨日もおとといもそれなりに歩いてるんですけどね。
8:30、芭蕉の辻。芭蕉翁とは特に関係ないようで、人が集まるので「場所の辻」と言ったのが訛ったとか。
芭蕉の辻
市街の北のはずれには、青葉神社があります。ここは伊達政宗公を祭る神社で、政宗公の神号は武振彦命。
青葉神社
実はこの付近は寺町であり、輪王寺、資福寺、東昌寺、光明寺など廻ります。東昌寺にはマルミガヤという銘木がありました。カヤの樹ですが、実が丸いのが特徴です。
マルミガヤの丸い実。
光明寺には、支倉常長の墓と伝えられる五輪塔がありました。持参したお香を焚いて、一休み。
伝・支倉常長墓。
10:30を過ぎました。堤町に入ります。ここは堤人形という土人形で有名なところだそうです。人形屋が幾つか並んでいます。8月のトップページに載せたマンホールはこの少し先で採集したものです。水準点を示しているので、穴が開いているのではないのかもしれません。
堤町
昨日訪れた仙台文学館を通り過ぎ、七北田の仙台藩刑場跡に。
仙台藩刑場跡
この奥州街道のうんと初めの方で、小塚原刑場跡の北千住・回向院に立ち寄ったときにも感じたのですが、刑場の露と消えた人々を弔う地蔵菩薩の表情は何だか無表情で、それが返って往時の凄まじさを思わせてぞくっとするのでした。
そうこうするうちにお昼時なので、刑場に近い和食レストランでカツ定食。そしてまた歩く。暑い。14:00ごろ、ファミレスに避難してドリンクバーとアイスクリーム。ドリンクバーにシャーベットがあったので、ストローで思い切り吸うと、今までに味わったことの無い頭痛が!急に冷たいもの食べるとキーンと痛くなるあれな訳ですが、それにしても人生最大のキーンでしたな。
仙台市を抜けて富谷町。ずんずん歩いて富谷の宿場も越え、大和町に入った辺りで何だか吐き気のような気分の悪さを感じました。それでも適当なところまで歩かないとどうしようもありません。こういうときはペースを落として休み休みにでも少しづつ先に進むしかありません。午後6時になろうかという頃、吉岡の宿場。八幡神社には出店が出ています。茅の輪くぐりをやっているようです。露店の焼きイカの匂いをかいでいるうちに、食欲が出てきました。
吉岡・八幡社
国道4号線に一度出るとラーメン屋が。ここでつけ麺をいただき、また吉岡の宿場に戻り、バス停で古川行きのバスを待ちます。午後7時をまわると宿場は静かです。ホントにバスなんて来るのかしら?なんて不安も募りますが。
夜の吉岡の宿場
それでも無事古川にたどり着きました。明日はまたバスで戻ってきてそこから古川まで歩くわけですが、ちょっと不安があるのでした。つづく。
posted by けいりう堂 at 23:59| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚・続々

7/30・奥州道中仙台2日目。

日曜の朝はもちろん仮面ライダーカブトを見てからの出発となります。柳町通りを西に向かい、広瀬川を越えて向山のまずは愛宕神社。愛宕神社というのはどこでも小高い山の上にあり参道は険しいというのがこれまでの経験ですが、ここもまたそうでした。朝一番の大汗をかいて登りました。ここから見る仙台市街の夜景もまたよいそうですが、まあ登るのは大変な思いなわけで。
愛宕神社参道。
愛宕神社の裏手には虚空菩薩のお堂があります。虚空菩薩といえば寅年のわたしの守り本尊。ぜひお参りせねば。
虚空菩薩堂
しかし当然ながら下りもキツイわけで。
虚空菩薩堂・参道
ここから霊屋下に向かいます。伊達家墓所・瑞鳳殿に参拝するわけです。ここもまた小高い丘の上です。ふもとの茶屋でアイス珈琲を飲んで休憩してから行きます。
瑞鳳殿
瑞鳳殿は、東照宮もかくやという絢爛な造りです。そばに資料館があり、発掘調査を行なった当時のビデオを放映していました。正宗公は面長で現代人に近い骨格の人相であったということです。その後感仙殿・善応殿を詣で、仙台城址へと向かいました。
仙台市博物館
折りしもここではポンペイ展などやっていまして、常設展の他にこのような企画展など見るとなると時間がかかってしまうわけですが、ポンペイ展を見るということもめったに無いのでまあここはとっくりと見学することにしましょうか。ところでもうお昼。近くに食事どころは他に無く、博物館の食堂で昼食をとりました。人が沢山いて、4人待ち。博物館をじっくり見ているともう15時です。これは大変!なぜ大変かというと、今日はこのあと仙台文学館を訪ねるつもりなのですが、こういう博物館の類は16時くらいになると入館の締め切りをしてしまうわけです。あわてて仙台城跡に向い、あわただしく回ります。一応正宗公の銅像をパチリ。ああ、仙台に来たなあ、という実感が。
青葉城・正宗公銅像
具合の良いことに、城跡にはタクシーがいました。これを捕まえて一路北へ。仙台文学館は台原の森林公園の北の端にありました。建物の床にはガラス張りの大きな窓があり、下を流れる小川が見えます。
文学館から小川を見下ろす。
文学館の展示の中で、高山樗牛が瞑想にふけっていた松の木があるということを知ったので、そこに歩いていくことにしました。森林公園の中をひんやりした遊歩道を通って。宮城薬科大学のそばにそれはありました。結構迷ってご近所の方に尋ねたりしましたが。
高山樗牛瞑想の松
18時まわりました。瞑想の松のそばの東照宮を詣でました。ここには「奥の細道」という標識があり、芭蕉翁もここを訪ねたようです。東照宮駅から電車に乗って、仙台に戻りました。夜、弟の婚礼で遠い親戚となった亀子さんという男性と飲みました。翌日は古川を目指します。
posted by けいりう堂 at 23:04| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚・続

7/29・奥州道中仙台1日目。

この日出発は遅く、仙台に着くとお昼。まずは荷物を置かせてもらおうとホテルに行くと、すでに部屋は用意できているということで早いチェックイン。今日は街道を進むのではなくて、仙台市内をうろつくことに決めています。駅のそばの朝市など冷やかしてから、いきなりタクシーに乗って青葉山の奥へと向かいました。そこは東北大学のキャンパス。理学部自然史標本館と書かれていますが、これは東北大学総合博物館の前身となるべき建物なのです。
東北大学自然史標本館
入口には沢山のサンゴの化石。展示室に入ると、天井に巨大な鯨の骨格標本がぶら下がっています。先カンブリア紀の奇妙な生物達の化石などもあり、展示室1階はほとんどが石の展示になっています。ヒスイなど見るといつぞやの塩の道の行脚を思い出してしまいます。小さいのでも買って置けばよかったかなあなんて。図鑑や教科書でしか見たことの無かった「月のお下がり」(巻貝の中に珪酸や石灰が満たされてできた化石。月のウサギのウンコだとされた)や「高師小僧」(沼地の植物の根に酸化鉄や水酸化鉄が凝集して高さ5cmくらいのコケシ状になった鉱物)なんかも見ることができて有意義でした。
帰り道はずっと青葉山を歩いて下りました。美術館の辺りから北に向い、広瀬川を越え、宮城県知事公館に行きました。ここの門は、旧仙台城の門なのです。
知事公館
さらに北の方に歩いていき、子平町というところへ行きます。ここには龍雲院というお寺があって、林子平(海国兵談作者・)、細谷十太夫(伊達藩隠密烏組大将・1907年没)万城目正(りんごの唄の作曲者)などの墓所です。並木路子さんの植えた樹があります。確認しなかったけど、多分林檎の樹だったのでしょう。
並木路子さん植樹の樹
境内には林子平考案の日時計などもありました。野外においてあるのでおそらく復元品なのでしょう。太い針金を折り曲げたものが南北に沿うように石版につけられていて、この針金の影が時刻を示すようになっています。
林子平の日時計
その後南に向かい、大崎八幡社を詣でました。社殿はきらびやか。奉納された数々の短冊が、七夕祭りの近いことを告げています。
大崎八幡社
次におとづれたのは仙台市民プール。泳ぎに行ったのではなくて、ここに「キリシタン殉教の碑」があると聞いていたからです。林の中の暗い道を歩くとそれがありました。元和9-10年のことだったそうです。撮影していると碑の裏側でごそごそ言う音がします。どうやら、ここを住処としている方がいらしたようです。画像の左側にブルーシートが見えていますよね。
キリシタン殉教の碑
殉教碑そばの古本屋なども冷やかして、ホテルまで歩いて帰りました。夕食のいいところを探してみましたがこれといったところが見つからず、結局ホテルの和食レストランでちょっと引っ掛けました。どれもこれもそれなりに美味いのですが、何か物足りないような気がします。仙台は東北随一の都市ですが、東北を代表するということが帰って仙台という地方としての特色を希薄にしているのではないかと思ったのです。でも、「ばくらい」(ほやとなまこの内臓=このわたの塩辛)は日本酒に良く合うのでした。
ばくらい
翌日も仙台観光。やはり博物館類似施設中心です。普通、松島とか多賀城とか行くんでしょうけどね。それはまた未来の楽しみということで。
posted by けいりう堂 at 21:54| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚

2006年08月18日

7/8、矢倉沢往還歩き(伊勢原〜鶴巻温泉)

庭のグラジオラスもラベンダーも咲き誇る爽やかなる七月の朝、矢倉沢往還の旅を再開。大山参りも無事済ませ、足取りは軽い。
庭のラベンダー
伊勢原到着はお昼。駅の近くでそばをいただいてから矢倉沢往還と大山道の分岐点に向かうと、大隈天神社という小さな祠を見出しました。ここはもと天神山と呼ばれ、何でも明治末期にこの神様が近くの十二柱神社に合祀された後、菅原道真公の御霊が旗川家の潜り戸を鳴らすという珍事が続き、天神様は天神山に帰りたがっているのだろうと元の場所に再び祭られたのだそうです。まずはここを今日の初詣として、歩を西に転じ伊勢原大神宮に行きました。名の通りここは伊勢神宮の分社で、過去には照見山神宮寺もありましたが今は灯籠があるのみです。神社の方は本家伊勢神宮と同様外宮・内宮とあり、やはり外宮・内宮の順に詣でる慣わしとなっています。大きなクスノキがここのシンボルです。
伊勢原大神宮
クスノキといえばここから東の方にも大福寺の大楠という銘木があるということで、街道を南にエクスカージョンしましたが、近在の人々が勝手に境内に入るのを嫌って門は閉ざされておりました。さらに千手山大宝寺なども訪れて、再び街道に戻る途中、消防団のシャッター絵を採取。
シャッター絵・伊勢原
ここからはしばらく246を西に向います。途中古代の条里制の跡があるとのことで市ノ坪へ。公園になっていてテニスコートや綺麗なトイレなどありましたが、史跡を示すものといえば「史跡市ノ坪」とある小さな標示杭だけ。説明版などありませんでした。
時刻はそろそろ16:00。街道を少し南に外れて、住宅街を徘徊しました。(伝)善波太郎墓と呼ばれる遺跡を探していたのです。悪意はありません。だから住民の皆さん、どうか石を投げないでください。。。入り組んだ道をあちこちさまよった挙句、現代住宅の間にポツリと五輪塔の集まる土地が取り残されているのを見つけました。
善波太郎
善波太郎重氏は平安末期の武将で、こんな伝説が残っています。
善波太郎重氏は、若いとき家の召使千子女と通じ勘当され放浪のうち千子女も、また息子探しに出た両親も死に、善波館は悪臣にのっとられた。そこに戻った重氏は悪臣たちに謀られ静岡の蒲原に売られたのち諸国を点々とするが、信濃の諏訪明神で霊験を得て館を取り戻したと。ちなみにこの石塔群と善波氏を直接関係付ける証拠は無いものの、時代的には矛盾は無いようです。
さて、午後の4時を過ぎてしまいました。実は今日、三ノ宮比々多社の郷土資料館を訪れるつもりでいたのですが、たどり着いてみれば予想通り郷土資料館は4時で閉館。悲しく戻りましたが、まあ次回に楽しみ伸びたということで。。。
その後保国寺、長福寺、養国院など東名道付近のお寺を詣で、鶴巻温泉に向かいました。
長福寺・石仏
いのこ最中を売る店の向かいに古代の箕輪駅跡がありました。
箕輪駅跡
かくして18:30、鶴巻温泉到着。弘法の里湯で一日の汗を流し、ロビーにあった七夕の短冊に戯言など書き付けて秦野の夜は更けてゆくのでした。
ねたが古いしわかりにくい。
posted by けいりう堂 at 08:21| Comment(2) | アルファ-ラルファ日記

2006年08月17日

6/24大山参り。

この日、先回たどり着けなかった大山山頂を目指す。伊勢原からバスでケーブル駅、そしてそこからケーブルカーで下社まで行く。こないだはここまで徒歩できたから、これで良いのです。下社はすでに海抜678m。下から見上げるとそう大きな山に見えない大山も、大山というだけあって山頂は<1247mなのでして。しかも結構急。平坦な道なら日に30km歩いてもびくともしないわたしの足は、ちょっとでも傾斜があると途端にヘタレになってしまいますから。ここから距離で28丁、1丁は109.09mですから3054mということに。ということは平均勾配10°くらいになるのですか?ううう。しょうがない。ちびちび歩いていこう。下社に鹿の親子がいた。
下社の鹿
で、以前はここまで来たという山頂への入口。ここで勝手にお払いして登っていくわけです。わたしはあちこちで神社に参詣してますから、覚えた祝詞でも唱えていきますか。「はらったま きよったま かむっなが まもったま さきわったま〜」ちょっと「うる星やつら」のサクラさん入ってますけど。
山頂入口
1丁登っては休憩、という感じでへろへろと登っていくと、それでも上には上がっていくもんでして、まあまだ7丁目ですけど、夫婦の杉。
夫婦杉
更にあがっていくと、子供らのキャーキャー言う声が聞こえます。ボーイスカウトの人々のようですね。ボーイスカウトの人々で行儀良くしてる集団って見たこと無いのですよ。やかましいなと思ってるので「こんにちは」とか挨拶されても思い切りしかとしちゃうんだもんね。いや、実は息が切れてて挨拶の声が出ないの。16丁目。蓑毛道との追分に出ました。晴れてれば西に富士山が見えるはずですが、何にも見えません。
追分より見えぬ富士を望む
12:49、30回くらい休憩した後に山頂に到着。ガスが出てて眺望すこぶる悪し。だからお昼ごはんの画像でも。こんなもんでも山の上なら美味しいんだよねーひらめき
お昼。
さあさああとは降りるだけだ。見晴台のほうから二重滝に向かって降りていきます。以前登ったときはこっちから登ってきたのだけど、距離はこちらのほうが長いようです。下りは大得意だ!膝のガクガクを飼いならしつつ、ガンガン降りていきます。あっという間に二重滝到着。
二重滝
茶店で一服すればもう大山には用は無いのでさっさと降りてしまいましたが、そのあと行くべきところがあったのですね。それは伊勢原の図書館。ここで大山街道関係の図書を少し調べてコピーすると、五時過ぎました。これで心置きなく先を目指すことができます。次回は伊勢原-秦野の旅です。またまた鶴巻温泉で一風呂かな。ふふふ、山道もないし楽しそう。。。
posted by けいりう堂 at 00:51| Comment(2) | アルファ-ラルファ日記

2006年06月19日

矢倉沢往還・大山参り

足もう一月以上前ですが。。。
5/6は朝早くから"本"の付かない方の厚木駅に向い、そこからこの日は大山を目指します。大山のケーブルカー乗り場に着くまででさえかなりの道程となるわけですが、まあすぐそばに見えてるから行っちゃおうかと。厚木から見ると結構高い。毎回の行脚で愛宕神社が高いところにあるから嫌だとか言ってるけど、ここの神社はそんなもんじゃない。何でも大昔伊豆半島が海のかなたからやってきて日本にぶつかったときに盛り上がったのが丹沢の山々なんだそうで。。。マメ知識だよ!ではこれより関東一人旅連合ひとり緊急集会を行なう。厚木駅朝6時だよ!
さて相模川を渡りまして、厚木の渡し場跡に来ました。渡辺崋山の記念碑などもあるけど、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツ。どういう状況なんだかわかりません。
あぶないのはお前だ
6:30厚木神社で旅の安全を祈願。蚤の市があるらしく人出が多い。南下して厚木熊野神社でまた安全祈願。ここには崋山「厚木六勝図」熊林の暁烏(ゆうりんのぎょうあ)を記念する碑があったけれども、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツ。全国どこに行っても消防団のシャッター絵は面白いものが多い。時間が早かったり遅かったりしないと開いちゃってて見られないこともあるが。この手の画像も結構一杯になってきたと思うからそのうちギャラリーでも作りますか。消防シャッター絵・厚木
消防シャッター絵・厚木2
時刻そろそろ9時。行く手には雄大な大山が見える。けど、わたしの目を惹くのはどうもこんなヤツで。
いや、案外美味いんじゃないかと思うんですよ。
店の名も「だんごや」とフルッテル。時間早くて開いてなかったけど。

…え?なんか風情が無い?そうですか?わたしにはこういうものも道端の道祖神も雄大な山々も皆同様に旅情を誘うものたちなのですが…。そうですね、人生終わりに近づいてますから何でも受容できるようになってきたんでしょうね。先を急ぎましょう。老い先も短いようだし。
消防シャッター絵・厚木その3
なんつっといてまたこんなのに目が惹かれてしまうんですねえ。要するに死ぬまでこんな感じって事ですか。10:00、子安神社。愛甲石田です。子安神社の道祖神
神社の木陰で足にバンテリン塗って休憩。まだまだ今日という日は続きます。再び歩き出します。東海大学病院の辺りで大山をパチリ。
大山遠望あれに登るのかと思うとやはり引いてしまいますね。でも、お不動さんが「早く来い来い」とうながしてますので。
大山道標
へへへ、まだだよー。まだ寄り道してくんだよー。と言うわけで式内社高部屋神社に寄ってみました。社宝の鐘は県立神奈川博物館に貸し出し中…。これはこの間見に行った特別展「神奈川の神道美術」のための貸し出しでは。うーん、見たのかなあ、俺。そうこうするうちにもう伊勢原ですね。大田道灌公のお墓参りです。
道灌公墓所に続くせせらぎの道。
普済寺、咳止め地蔵など訪れるとそろそろお昼。道は心なしか傾斜がきつくなっていくようです。石倉橋の道標の辺りから山道の風情は強まって。6-7年ばかり前にふもとから登山したときの記憶も何となくよみがえってきたような気がします。そろそろ腹ごしらえをしなくてはと思っていると蕎麦屋発見。なめこおろし蕎麦大盛りを頼んだら、おお、確かに大盛り。
馬の餌かと思った
まあ完食しましたが。食べ過ぎも良くないですよね。神聖なお山にゲロしちゃまずい。13:30、比々多神社。ここでこないだ仙台で買ったデジカメ落とす。この日はちゃんと動いてたけど、後日になって液晶ディスプレイにひびが入ってたことが判明しました。もうやだ〜(悲しい顔)
そしてやっと登山口についたら午後3時。そしてわたしの目を惹いたのは…
消防シャッター絵・大山
旅情感じますよね?さてここから、ケーブルカーには乗らずに歩いて登るのですが、相当くたびれてますので、男の癖に女坂を登ります。道しるべに「らくらく女坂」とか書いてますけど、女坂だってらくらく登れるというほどじゃない。何度も休みながらヘタレ登山の末、大山寺に到着。ここは初訪問です。雨降山大山寺
さらに登って16:00、阿夫利神社下社到着。頂上まではさらに時間が掛かるゆえ、残念ながら今日はここまでです。さようなら皆さん。
阿夫利神社下社
でも実はケーブルカーで下山してから後、秦野の方へずんずん歩いて、伯母様のバス停を見たり、ダイドーの自販で初めて当たりが出たり、三宮比々多神社に寄ったりして最後鶴巻温泉の陣屋で打ち上げやったりしたけど、省略。
posted by けいりう堂 at 10:04| Comment(5) | アルファ-ラルファ行脚

2006年05月04日

奥州街道紀行・秋保温泉・名取から仙台まで(5/2)

足朝の5:00、秋保の朝はひんやりしていました。やっぱりせっかく来たのに温泉で飲んだくれるだけじゃ物足りないじゃないですか。そこでいつもの歩き装束に着替えて山形の方向に向いて歩き出しました。着物や制服を着た女性何人かとすれ違い、湯元の旅館は今が出勤時間のようです。軽く流して朝風呂浴びるか、というくらいのつもりで出てきたのでしたが、昨日海辺で見た名取川が狭い谷合を流れているのを見るとどうにも足が止まらない。秋保大滝までは距離がありすぎるので、神ヶ根温泉の辺りから二口街道を湯元方面に引き返しました。この辺りは桜並木があり、名取川の河原に出ることができます。ここで少し休憩。
秋保・名取川
宿に戻ると万歩計が1万歩を記録していました。ちょっとのつもりがつい本気の歩きになって、ちょっと大人気ないですかね。朝食を美味しくいただくと8時。喫茶コーナーが開いていたので珈琲をいただきました。8:30。そして朝風呂に。夜中の間に男女の入れ替えがあったので夕べとは違うお湯に。朝から風呂に入ると疲れが出てこれからの歩きに支障が無いかと少し心配でしたが。そして9時過ぎに宿を出て、磊磊峡の辺りまでまた少し歩きます。途中、秋保・里センターというのがあり、ここで散策マップを幾つか入手しました。昔は仙台からここまで鉄道が通っていたそうです。その先に覗き橋という幾分淫靡な名の橋があり、旅人はこの橋からの渓谷の眺めに見入ることが多くその名がついたということでした。覗いてみると、特に淫靡なものが見えたというわけでもありませんでした。
覗き橋から覗いた名取川
覗き橋からは渓谷沿いの遊歩道を歩きました。奇面岩、天斧岩、三筋の滝などの見所が看板で表示されています。「真二つに天斧巌をつんざきぬ三万年前のあけぼの」と土井晩翠が詠んだのはこの辺りでしょうか。上手いこと言います。三万年前とか言うと「創聖のアクエリオン」を思い出しますね。あれは1万2千年前でしたか。滝不動の辺りで遊歩道が終わりになりました。ここからバスで仙台へと戻ることにします。バスを待ちながら停留所付近をうろついていたらこんな看板が。
こ、怖い…
権太、三太衛、茂久吉とは一体誰なのでしょう?犬の名前のような気もしますが、案外屈強な男達かも…いやいや、徘徊してるというのだからボケの始まったご老人なのかもしれません。遊び相手を探してるのだそうです。寂しがりなのでしょうか。「注意を怠  るべし」というのは、警戒せずに友達になってあげて欲しい、と言う意味でしょうか。秋保の謎に首をかしげている間にバスが来ました。
バスは長町を経由して仙台駅へ行きます。長町には仙台から一つ南の駅がありますから、そこで降りて軽く食事(駅の立ち食い蕎麦。蕎麦は良いですね。理想的なダイエット食だと思います)して名取に再三戻りました。三日目にしてやっと奥州道中再開と言うわけです。GWの行楽客を意識してでしょうか、駅のホームにはてるてる坊主が。雨降ったら首をちょん切るぞ。
長町坊主
12時過ぎに名取につきました。公民館まで少し引き返して衣笠の松を見物。この名は木戸孝充の歌にちなむそうです。「大君の立ち寄りましし陰なれば衣笠の松とこそいうなかりけれ」衣笠は貴人に用いる柄の長い傘。「けれ」は逆接の接続助詞。わたしには桂小五郎が衣笠の松と言うと言ったのか言わないと言ったのかがわからないのですが…。そこから30分も歩けばもう仙台市に入り、広瀬橋には14:30頃着きました。橋の袂に橋供養の石碑があります。根岸の長者の娘という人が人身御供となって橋が架かったという橋姫伝説があるのでした。
広瀬川
川を渡って旅立稲荷をお参りして、河原町・南材木町・南鍛冶町と街中を進み三宝荒神社を詣で、仙台藩校のあった泰心院など訪れるといつの間にか16時をまわっています。これはまずい!何がまずいかと言うと、そう、博物館の類が入場を締め切る時間が迫っているのです。あわてて田町でタクシーを拾って榴岡(つつじおか)公園に向いました。歴史民俗資料館は入場16:15まで。嗚呼,間に合った。ここは旧陸軍第四連隊の兵舎で、そういう関係の資料も多く所蔵されていました。色々眺めていると閉館間際に入ってきた人が怒鳴り散らしているのが聞こえてきました。閉館まであまり時間がないと職員の方に言われたことが気に食わなかったようです。サービスを受ける立場としての意見を述べているようなのですが…静かにしろよな(ト、私も怒鳴る、ただし心の中で)。歩き疲れでわたしも少々怒りっぽくなっているようです。ここで史跡に関わる資料を2冊ほど入手して、国分寺跡をまわるとかなり風が冷たくなっています。次回は青葉城や市内の博物館をぐるぐる回るところからスタートです。多分梅雨時に訪れることになるのでしょうが、街中歩きだからまあ、いいかな?仙台って梅雨はどうなんだろうとか、秋保に行ったから今度は作並かな、とか、博物館の閉まっている月曜を避けて来なくては、とか、まあいろいろ考えつつ混雑している新幹線に乗って都会に帰りました。この日家に着いた時点での歩数、43797歩。お疲れっしたー。
posted by けいりう堂 at 10:56| Comment(0) | アルファ-ラルファ行脚